
小田原おしゃべり倶楽部
小田原に生きたある材木商の記録
2026.3.13 松島俊樹さん
1944年(昭和19)北支・中支へ出征、1946年(昭和21)5月米軍捕虜・帰国



1950年(昭和25)子供博覧会、1970年(昭和45)万博


昭和バブルから昭和の終焉・バブル崩壊へ


小田原に生きたある材木商の記録
2026.2.13 松島俊樹さん
今年は昭和改元百年にあたります。これを機に小田原唐人町の材木商の家に生まれた高田掬泉(本名 喜久三)が遺した書籍・日記・多くの挿絵などに拠り昭和百年を振り返ります。なお掬泉は小田原史談会の会長も務められた方です。第1回は関東大震災から召集令状が来るまで、第2回は出征・敗戦・昭和バブルなどについてお話しします。
注:挿絵は自画像を除き「神静民報」に連載された「昭和とはどんな眺めぞ」より転載。
(文責 松島 俊樹)



高田掬泉自画像
『明治小田原太平記』



北条幻庵宗哲について
2025.12.12 浅川 徹さん
・幻庵は伊勢宗瑞の4男として生まれる。母は最近の説では宗瑞側室の善修寺殿(狩野氏の女)。生年は最近の説では永正年間の初め頃(1504~1508年)。
・幻庵の名前 幼名菊寿丸、仮名(通称)は不明、法名長綱(箱根権現別当長綱)、法名宗哲、庵号幻庵。
・幻庵の妻子 妻栖徳院殿、三郎時長(永禄3年没小机城主)、新三郎氏信(永禄12年没小机城主)、融深(永禄12年没箱根権現別当長順)、靍松院(吉良氏朝室)、女(名不明)幻庵養子の三郎(後の上杉景虎)室。
・文献に見る幻庵
永正16年(1519)4月菊寿丸所領注文宗瑞死去4ヶ月前に4400貫文の所領譲受ける。享禄2年(1529)享禄3年連歌会。天文2年(1533)歌会。
天文4年甲斐山中合戦、入間川合戦に参戦。天文7年第1次国府台合戦参戦
天文14年連歌師宗牧を屋敷に招く。天文15年川越合戦で川越城に籠城。
永禄3年(1560)吉良氏朝に嫁ぐ娘靍松院に「宗哲覚書」に大名家の奥の心得を記して与えた。元亀元年(1570)養子三郎(氏康7男)が上杉謙信の養子として越後へ。
天正17年(1589)幻庵死去。
・幻庵の文化 ・連歌 連歌師宗長、宗牧と交流。
和歌 冷泉為和と歌会。古今伝授の証文を江雪斉に与る。
工芸 尺八一節切。鞍作り。庭造り(早雲寺、宝泉寺)。茶臼作成。
・久野幻庵屋敷の遺跡図による説明。
(文責 山口 隆夫)
小田原の歴史よもやま話
2025.11.14 小田原郷土史研究家 石井啓文
石井さんは会報「小田原史談」に81件の記事を投稿されており、また、現在はブログ「郷土士の歴史探求記事」で多数の記事を投稿されている。
「小田原史談」投稿記事から幾つか話された。小田原市国府津に長期に滞在し、「豚一様」とよばれた徳川慶喜公について、石井さんは居神神社と交流されており居神神社に関連した記事をいくつか書かれいる。松原神社神官の分家出身の村上珍休(たかよし)、居神神社祭神・三浦義意と神社説明板の撤去、北条氏2代氏綱と「勝って甲の緒を締めよ」の逸話と建碑について話された。
ブログ「郷土士の歴史探求記事」から関東大震災後に行なわれた山王川改修工事と改修工事の説明板に設置について話された。
(文責 山口 隆夫)
北条氏直と督姫の二人の娘
2025.10.10 小田原北条の会 芹澤香代子
小田原北条家五代当主「氏直」と徳川家康娘「督姫」の間に娘が二人いたと伝わる。
摩尼珠院と万姫・縁了院です。
芹澤さんは督姫の二人の娘の遺跡を訪ね、京都、鳥取などのお寺を巡られた。
武田家が滅亡し、本能寺の変の後、北条と徳川は武田家遺領をめぐる争い後、和睦・同盟し、天正11年(1583)氏直・督姫は結婚。天正18年(1590)小田原合戦で小田原城を開城し、氏直は家康の娘婿であったことから助命され高野山に蟄居。翌年秀吉より赦免されたが疱瘡で死去。督姫と娘は家康に引き取られた。文禄三年(1594)督姫は池田輝政に再嫁した。
摩尼珠院については北条系図の記載のみで、戒名に童女とあり幼い時に亡くなったとされている。京都市伏見区にある日蓮宗本教寺に母の督姫の位牌と共に「摩尼珠院殿妙勝童女」の位牌がある。位牌の裏側に「小田原氏直公息女」と彫られている。
本教寺には督姫の肖像画がある。寺伝によると督姫の屋敷があった。池田輝政と再婚するとき寺に屋敷を寄進した。
万姫・縁了院殿は母の督姫の再婚と共に池田輝政の養女となる。
鳥取藩、鵜殿家での法号「縁了院殿秀真妙玄」(北条家での法号は「宝珠院殿華庵宗春大定尼」)。墓所は京都本禅寺、菩提寺(位牌所)は鳥取市妙要寺。
肖像画が妙要寺と宝塚市妙幻寺にある。妙要寺は鳥取藩家老・鵜殿家の菩提寺。鵜殿家は督姫の母の実家で、督姫の孫の池田光仲が鳥取藩・藩祖である由縁により鳥取藩家老となる。妙幻寺は縁了院の開基。
重要文化財の酒呑童子絵巻は北条家2代氏綱が狩野元信に描かせ、代々北条氏に伝わってきたが、北条家が滅亡すると督姫の所持となり、池田家に伝わる。

(文責 山口 隆夫)
通信の歴史
2025.9.12 江戸民具街道館長 秋澤 傑
先ず、通信の歴史として、人類の意志疎通の言葉、手紙による伝達、飛脚、郵便などについて話された。日本における飛脚制度は大化の改新後に駅の制度に始まった。
ついで、電気通信の歴史を話された。
・静電気の発見とライデン瓶。平賀源内も実験した摩擦による静電気発生とライデン瓶(エレキテル)を実演。
・モールスはジャクソンの電磁石の実験を見て、電信機とモールス符号を発明。ジャクソンの電磁石を実演された。
・海底ケーブルのよる通信網の構築。ドーバー海峡に最初に敷設。イギリスは世界中の植民地を繫ぐ海底ケーブル網を敷設。日本での電信の幕開けはペリーが来航したとき電信機を幕府に献上した。日本の電信網は明治維新後短年月で構築された。
・マルコニーが無線機を発明し。無線通信が始まった。
・フレミングが真空管を発明。
・当時のラジオを使い、終戦の玉音放送を実演。
(文責 山口 隆夫)
「浅田兄弟敵討」物語
2025.8.8 別生 憲一
文政元年7月12日、事件は起こりました。
裏町足軽長屋で「浅田只助」が「鳴滝万助」に切り殺されたのです。逃げようとした万助は、悲鳴に驚き、飛び出した近所の人に取り押さえられ、牢屋送り。しかし一年後の冬に脱走、行方をくらませました。

只助には二人の息子がいました。鉄蔵(井細田からの養子)と紋次郎(実子)です。二人は心を決め敵討願を幕府に出しました。
敵討の旅が始まります。万助に気づかれないように「虚無僧」になり、伊勢参りの「神道者」になり伊勢、大阪、四国、九州と足を延ばしましたがその姿は見つかりません。ひとまず江戸にもどり、武家に奉公しながら江戸市中を探すことにしました。すると文政7年4月のことです。小田原の母から「水戸辺りでタバコ屋をやっている」との知らせが届きました。
二人は直ぐに出発、タバコ屋一軒一軒を探し回り、ついに磯浜村(大洗)で万助を発見、見事に本懐を遂げました。
この快挙を藩主大久保忠真は大いに称え、五石二人扶持の二人を、いっきに五十石の知行取りにし格上げしました。
古文書『孝貞義鑑』『御届書両人(兄弟)口書』をもとにした、物語仕立ての話でした。
(文責 別生 憲一)
箱根駅伝小史と青山学院大学の躍進 〜 私と箱根駅伝
2025.6.13 片野 昭幸
箱根駅伝は1920年に、マラソン選手の育成を目的として創設され、時代とともにその役割と意義を変化させてきました。戦前・戦後を通じて大会の継続が試みられ、現在に至るまで多くの人々の関心を集める大会となっています。
青山学院大学は、原晋監督の指導のもと、従来の精神論を超えた科学的トレーニングやデータ分析、選手の個性を重視するマネジメントを導入し、駅伝界に新たな風を吹き込みました。

講演では、こうした取り組みが結果として大学の評価や広報にも貢献していること、さらに駅伝が教育的・社会的にも重要な意味を持つことが紹介されました。スポーツが人材育成や地域連携の媒体としても注目されていることが印象的です。
(文責 宮﨑 桂一)
「北と南をつなぐ自然のみち、東と西をつなぐ歴史のみち
〜石を介した東西・南北の交流」
2025.5.8 西川尚之
主な内容は、①ジオパークの紹介、②石を介した東西南北の交流事業ーガイドの視点から、③箱根ジオパークの南足柄エリアの紹介というものです。
西川さんは①まず、ジオパークとは 46億年の歴史を持つ地球・大地(ジオ)と公園 (パーク )を組み合わせた用語であり、地球上の生きとし生けるものの存在と活動を理解すること、そして、地球の未来を考えることの必要性を述べられました。②次いで、自ら採取された黒曜石・翡翠・コハクを手にとって、縄文遺跡における黒曜石やヒスイの出土状況から、糸魚川辺りから神奈川への「石のルート」を説明された。また、神奈川が三つのプレートのぶつかる地点であり、プレート境界が多摩川→相模川→酒匂川と変遷してきたことから、神奈川の東西の道はプレート境界によって造られたと言ってもよいでしょうと、私見を披露された。③南足柄サイトにある8つのジオサイトの中には、江戸時代に人を集めた「蛤沢」という所もあると紹介された。

最後に、現在、「南足柄の石垣」について興味を持っているので、何か面白い情報があれば教えていただきたいとのことでした。
(文責 青木)
「小田原の梅干し屋『ちん里う』から世界のCHINRIUへ」
2025.4.11 ゾェルゲル ニコラ
ニコラさんはドイツ出身で、大学時代にドイツの隣国オーストリアに留学していた奥様と知り合い、ヨーロッパで結婚した。大学卒業後、ソニー、ダイソンを経て、2000年に日本にあるドイツの会社に入った。その後、奥様が実家の「ちん里う本店」の5代目を継いだので、その経営にたずさわることになった。
なお、小田原には二つの「ちん里う」、3代目の時に分かれた「ちん里う本店」と「欄干橋ちん里う」がある。

「ちん里う」は明治四年創業で初代は小田原城の最後の料理長で、料理店(枕流亭)をはじめた。二代目は梅干しと漬物の製造販売を始めた。
米の消費量が減り、お米と一緒に食べられていた梅干し、漬物などの売り上げが減った。品ぞろえを見直し、昔ながらの「梅干し」を守りつつ、梅、赤紫蘇、桜を中心に絞った。
梅を使った焼菓子類や梅干しを使ったジャムを入れたパウンドを新たに創り、赤紫蘇、桜花を輸出し、赤紫蘇、桜花はチョコレート、酒のジン、石鹸に混ぜて使用されている。
奥様も海外経験があるので、外国に売ろうと、2012年に海外向けのオンライン・ショップを作った。自社製品だけではなく、他の老舗の日本の伝統的な茶、酒などの食品、「柏木鋳物」の風鈴などの工芸品、「印傳屋」のバックなどのファッションなどを輸出している。今では、 100ケ国以上に輸出しており、売上げは海外が6割。
(文責 山 口)
「38年ぶりに酒造りを再開した瀬戸酒造の7年間の歩みと今後の展望」
2025.3.14 森 隆信
始まりは、あるゼネコン会社の講演会です。この講演会に参加した開成町元町長さんがゼネコン会社から紹介された地方再生関連事業も行っている総合建設コンサルタント会社のオリエンタルコンサルタンツに電話したことです。町の再生・活性化のため、休業していた老舗酒造店の酒造りの再開を依頼した。
瀬戸酒造店は慶応元年(1865年)創業の神奈川県開成町にある酒蔵で、ビールとワインに押され日本酒の消費量が減少して1980年に醸造を中断した。
2017年にオリエンタルコンサルタンツは瀬戸酒造店を子会社とし、2018年から酒造りを再開した。社長になった森さんは橋梁設計が専門だった。異業種から参入した新しい視点による酒造りのお話です。
一年を通して醸造できる定温の醸造所を建設、井戸を一新し、杜氏を決めて、醸造を再開した。
丹沢・富士の伏流水を活かし、旨い酒を造り、ブランド化を図かった。なお、酒造店のある開成町の旧酒田村は名前の通り酒米の産地であった。
輸出に活路を見出すため、フランスのコンクールでプラチナ賞を、そして数々の国内外のコンクールで受賞し、また、フランスのミシュラン認定レストランの有名シェフとのコラボの動画を作って、ブランドを上げ、高級酒として輸出を増やす。同様に国内でも評価を高めた。

売上げも順調に増え、輸出も増加しており、輸出比率は再開当初8%で、現在の30%を数年後には50%にする。小さな酒蔵ながら22銘柄の日本酒を造り、世界中の料理と響き合うことを目標にしている。
そして、酒造りに関連した地場産業を、そして町を活性化して地方再生に貢献することを目指している。
(文責 山口)
「幻の帝国ホテル・小田原ホテルの話」
2025.2.14 渡部行雄
旧帝國ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトが大正6年に設計した「小田原ホテル」は長い間、計画だけで終わったと思われていた。
小田原城御用邸や閑院宮邸(小田原城八幡山古郭南曲輪)などがあり別荘池や保養地として脚光をあびた小田原に、大正の終わりから昭和の初めころ、帝國ホテルはリゾートホテルの建設を計画した。

小田原ホテル図の模写
横浜貿易新報の大正14年10月24日の記事に「小田中(現・小田原高校)の裏手に大ホテル建設」とある。当時の小田原町詳細図に、八幡山古郭中腹の本曲輪北側の(古い本丸八幡社のあった)古宮曲輪の百段坂に沿った一画に、「小田原ホテル」と記載されている。また、昭和初期の小田原駅の写真に背後の小田原城八幡山古郭に小田原ホテルが幽かに写っている。
このホテルは確かに建設された。しかし100%完成したかは不明だ。なぜならこのホテルは営業されることなく、忽然と姿を消してしまったからだ。
現在、ホテルが建設されたとされる場所には何の痕跡もなく、住宅地となっている。
(文責 山口)
「寄木細工の歴史、そしてサイエンスアート作品“六方美人”の紹介」
2024.12.13 宮崎桂一
最初に、膨大な寄木細工の収集家である金子皓彦さんの動画を元に、寄木細工の国内外の歴史について紹介がありました。それによると、シリアには寄木細工が4,000年も前からあり、現在もシリアやイランなどでは寄木細工が産業として存在していて、お土産品や商品として販売されているようです。現地で入手したお土産品を回覧して見せてもらいました。日本では、中東地域から伝わったと思われる最古の寄木細工が正倉院に収められています。寄木細工の技術は一旦中断したようで、江戸時代前期に駿府(現在の静岡市)で復活し、後期に箱根の畑宿に伝わったようです。これらの歴史を金子さんの寄木細工の収集品やオランダの博物館に保管されているコレクション、文献などから解説してもらいました。

サイエンスアーティストとしての宮崎さんは工房を立ち上げ、秘密箱やカラクリ箱などの寄木細工の系統に連なる「六方美人」と名付けた立方体形状の作品を制作し、世界に向けて販売しているとのこと。作品は、操作により形が複雑に変化するカラクリ作品「ラッキーキューブ」、そして様々に色彩が美しく変化する作品「CMYキューブ」となどであり、これらを当日は紹介して、参加者に楽しんでもらいました。なお「CMYキューブ」とは透明な立方体(六面体)の3つの面を絵の 具の三原色である「シアンC」(青緑色)・「マゼンタM」(赤紫色)・「イエローY」(黄色)に着色した作品です。詳しくは下記のFacebook または QRコードを参照してください。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100009013573057
(文責 宮原)

「富士フイルム『渡満隊』と満洲映画協会について」
2024.11.8 荒河 純
太平洋戦争終戦間近の昭和20年3月、満洲映画協会(満映)理事長の甘粕正彦が突然、富士写真フイルム足柄工場(南足柄)に現れた。関東大震災直後に起こった「大杉栄殺害事件」の犯人として、甘粕元憲兵大尉は当時の超有名人であった。その甘粕から「満洲に来い。満洲に工場を疎開して映画用フィルムを作ってほしい」と直談判された当時の社長の春木栄にはこれを断る術は無かった。春木は早速「渡満隊」を結成して70余名の社員を選抜、足柄工場の約2割の機材を満洲の新京に向けて送った。しかし、これらの機材は米国の魚雷によって悉 く沈められるか輸送不能に陥り、満洲に届くことは無かった。間もなく参戦したソ連軍が満洲に進出してきたため、社員は命からがらの脱出行であった。

満洲映画協会とは満鉄と満洲国の共同出資の国策会社であったが、二代目の理事長に甘粕が就任してから、「満洲人による満洲人のための娯楽映画」に力を注ぎ、満洲人の映画監督、脚本家を育てた。また、右も左も関係無く仕事ができるかどうかだけで採用したので、本土から追放された左翼転向者も多く受け入れた。これら甘粕が行った施策は,その後の中国映画界の実質的な礎になったと同時に、彼の精神は戦後日本の映画界、特に東映の任侠路線などに大きな影響を与えたと考えられる。
(文責 宮原)