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​小田原おしゃべり倶楽部

古文書よもやま咄し

2022年 7月 8日

1 古文書を楽しむ
小船の船津家文書「小竹村にて狐取り付き候」を紹介し古文書を読む「面白さ」をお伝えします。また「片岡日記を読む会」「たこ乃部屋」など古文書の仲間達の勉強風景を紹介します。

2 古文書を探す
 仲間の中には村方三役の文書を求めて500軒以上尋ね歩いたパワフルな方もいます。詳しくは7月発行「小田原史談」の「あしがり野に住んで85年」を読んでください。
またご先祖様を求めて10年以上「県史」「市史」「古文書」などを訪ね歩いている人がいます。その人の立場で小田原のどこにどのような古文書があるのか考えてみました。すると小田原市の図書館・郷土文化館などは勿論、私自身、史談会自身の課題もかなりあることを痛感しました。
今後進む方向をみなさんと一緒に考えたい、と思います。

報告者 松島 俊樹

小田原市立中央図書館の地域史料

2022年 6月 10日

図書館で扱う地域史料には県内の事柄を記した図書、寄贈された片岡家文書、有信会文書、山縣有朋文庫などの「特別集書」、家蔵古文書史料、図書館独自に収集した新聞・絵画・絵図など、文学資料、寄贈された写真などの視聴覚資料、旧町村並びに小田原市行政文書がある。
小田原市では図書館以外に地域資料・史料を扱う部署に郷土文化館、尊徳記念館、文化財保護課、小田原城天守閣、文学館などがあること、加えてそれぞれの部署間で史料についての情報が共有されていないことが説明された。
図書館の地域史料の利用活用を進めるには、目録の整備やレファレンス(調べもの支援サービス)など市民が利用しやすい環境整備が必要であること、また令和8年取り壊し予定の旧市立図書館(星崎記念館)には多くの図書や地域史料が残されていることから、地域史料の保存と散逸防止のためには収蔵施設の整備が必要であることを指摘された。
地域史料の利用活用について参加者でフリートーキングした後、利用者の声を図書館経営に反映させるためにも、小田原市図書館協議会委員への応募をすすめられた。
なお小田原市は郷土文化館や松永記念館などの収蔵品を画像データとして保存する「デジタルミュージアム」を令和4年度末までに開設する予定。

報告者 星野和子

十字町界隈に居住した著名人 

2022年 5月 13日

小田原は気候が温暖ということで、明治の後期から著名人が別宅や自宅を構えるようになりました。伊藤博文、森有礼、益田孝、松永安左衛門、嘉納治五郎、北原白秋等々、誰でも知っている人たちが小田原にやって来た時代がありました。とりわけ旧十字町(現在の南町)界隈には多くの方々が住みました。
5月のOOCは、「十字町界隈に居住した著名人」と題して、「十字町ヒストリア」(諸白小路角)を主催する金子不二夫さんに語っていただきました。
金子さんは政治家ばかりでなく三井物産、満鉄関係の人々を似顔絵付きで解説し始め、文学者・音楽家・思想家にまで及びました。また、その人たちの住居地を拡大した地図に番号で示し、長年の調査の結果を披露してくださいました。
金子さんの「十字町ヒストリア」は、国道1号線の諸白小路角にあります。

報告者 金子不二夫

『官道と関本宿』~小田原攻めで徳川軍の一陣が関本に泊まった?~

2022年 4月 8日

 古代、行政区である東海道の官道は、南足柄市西部の静岡県に隣接する“足柄峠を越える道”でした。市の中心部である関本は坂本と呼ばれ、律令制による建物である「駅・駅家(うまや)」が設けられていました。そこには22疋の駅馬(はゆま)の厩舎のほか、役人宿泊のための建物群があり、交通の要衝として大いに繁栄したものと思われます。
 坂本が今の関本と呼ばれるようになったのは、鎌倉時代に入ってからで、中世の関本宿の賑わいは、『海道記』(1223年・著者不明)などによって知ることができます。
近世、江戸期に入ると、家康の「宿駅伝馬制度」によって官道ルートは“箱根峠を越える道”が主となりますが、それでも関本宿には「問屋場」があり、矢倉沢往還や甲州道の中継地点として重要な役割を担いました。また、江戸庶民の「講」が盛んとなったことにより、講仲間の宿泊地としての賑わいがありました。
 近年、関本宿関連で新しい発見がありました。天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めの時、 家康陣の中で“足柄城、新荘城を陥れた陣”のいずれかの者が関本宿に泊まり、そのお礼にともらった「徳川の家紋入りの“壺”」を家宝にしている!という人が現れたのです。

報告者 〔関本宿を語る会〕加藤 孝

下堀方形居館と志村一族

2022年 3月11日

下堀方形居館跡は小田原市下堀にある堀で囲まれた東西103m南北130mの中世方形居館跡である。堀に沿って高さ約3mの土塁の一部が残っている。郭内には志村姓を主とする同族8軒が現存する。堀の外側にも分家が8軒ある。志村一族は武田家滅亡前に下堀に移り住み、北條家より東西約1km、南北約500mの広い地域を与えられ、四百年を超える期間かなり厚遇されていたことが想定される。守護神八幡神社を屋敷内にお祀りしている。なお、現在の中里下堀八幡神社は明治末の神社統合令により中里天津神社と下堀八幡神社を統合したもの。郭外に菩提寺金剛峯寺があったが江戸時代に酒匂川の洪水で流された。郭内の居宅は土塁に守られ水害を免れた。墓地跡には古い石塔墓と五輪塔墓があり、現在も供養している。今の菩提寺満福寺に寄託の大日如来像、寄贈の槍、本家に古仏3体、手鏡、花瓶、家系図、永禄4年の川中島の合戦の働きで奈胡庄を宛行う原隼人正昌胤から志村七郎兵衛宛の感状などの文物を伝承している。

報告者 志村 学

私のルーツ②中世篇  尼子氏滅亡と私の先祖

2022年 2月14日

 私の先祖は、備中足立氏の足立備中守信則である。足立信則は尼子経久の代に尼子氏の旗下に入り、大内、毛利との戦いを尼子側として戦っている。信則から二代後には尼子氏滅亡によって、武士から百姓となり、足立氏は代々竹内村の庄屋を務めている。
 弓浜半島や境海峡は尼子の月山富田城への東側の物資補給路に当たるため、永禄6年~9年には尼子と毛利の激しい戦闘地域となった。その戦闘にまつわる遺跡や言い伝えが遺されている。それらを紹介するとともに、先祖が深く関わった尼子氏の戦いや、戦国大名としての尼子氏の位置づけについても述べた。
 なお、備中足立氏の祖は、おそらく、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の一人である足立遠元と思われるが、未だ調べはついていない。

報告者 荒河 純

私のルーツ①古代篇 弓浜半島の形成と鬼退治伝説

2021年12月10日

 私の生まれた弓浜半島は幅が4Km、長さが17Kmのわが国最大級の砂州であり山も川も元々存在しない。この砂州がどうして出来上がったのであろうか? これは、日野川で古くから行われていた砂鉄採取のための「鉄穴流し」によって形成された。日野川流域で採れる砂鉄から良質の玉鋼が作られるが、この砂鉄を採取するために大量の土砂が流出したためである。
日野川流域の「鉄穴流し」等の製鉄遺構付近及びその関連地には数多くの楽々福神社が建てられ、製鉄の神様として崇信されていた。これらの楽々福神社の祭神は、第七代・孝霊天皇及びその子である。
 孝霊天皇在位の少し前に「倭国大乱」があり、朝鮮半島から多くの漂流民が倭国を目指した。これと一緒に朝鮮半島で行われていた製鉄の技術も伝わり、砂鉄資源のあった伯耆出雲地方で製鉄が始まったと考えられる。
 孝霊天皇には鬼退治伝説があるが、これは上記の漂流民がもたらした「乱」を抑えると同時に、当時始まっていた製鉄技術を奪取するために孝霊天皇が伯耆に遠征し、大和王国統一の礎を築いたプロセスと推測される。

報告者 荒河 純

鎌倉幕府成立に多大な貢献をした中村一族の謎

2021年11月12日

 中村一族の出自は桓武平氏良文流で平忠頼の子忠尊に始まり、横浜の笠間押領使である父常宗が中村郷に1100年頃入り、宗平の誕生は1104年頃でと推測しました。
 中村郷へ来たのは、周辺に有力な豪族がなく、交通の要で発展すると見込んだ為ではないでしょうか。
 義朝の家人である中村一族は保元・平治の乱に不参加です。それは、五所八幡神社や安寿寺の建立、周辺豪族との養子縁組や姻戚関係の確立等が原因と判断しました。平治の乱で義朝の後ろ盾を失った宗平は安寿寺別当の比叡山僧義圓を介し、比叡山を後ろ盾にする為に庄司になったと推測しました。
 宗平の居館は当初中村郷土着の豪族館で殿ノ窪でしたが、庄司となり、勢力拡大後は荘司屋敷に居を構えたと推測しました。

報告者 関谷 満

和田屋敷と大友能直をめぐる人々

2021年10月 8日

・小田原市東大友にある和田屋敷跡と言われているのは、鎌倉幕府侍所初代別当の和田義盛の屋敷跡ではなく、当時の大友郷を支配していた大友氏の屋敷跡である。
・波多野氏と源氏―源頼義 義朝 朝長 頼朝等との関係
・大友能直の実父―近藤(古庄)能成と養父―中原(藤原)親能
・大江広元 三善康信等京下りの吏僚達
・大友左近将監能直と和田左衛門尉義盛

報告者 小林 勲

ご先祖様探検隊 番外編 相模国一向宗事情

2021年 9月10日

 加賀一向一揆と北条氏関東支配はほぼ同時期・ほぼ百年です。一向宗の小田原に及ぼした影響について多くの資料は「北条氏は一向宗を禁教としていた」と書かれており、この「定説」を納得しておりました。ところが鳥居和郎さん(小田原市文化財保護委員)の論考『後北条氏領国下における一向宗の「禁教」について』を読み、目から鱗の思いをしましたので、ご紹介します。
1「一向宗禁教」の根拠は「1506年から禁教した」と書かれた1566年の「後北条掟書」である。
2 しかしその期間に北条氏に一向宗の家臣がいたり、本願寺と領内の真宗寺院の交流もあった。
3 1532年に一向宗真楽寺(国府津)の真乗追放他の事実はあるが、享禄・天文の乱が主原因と考えられる。
4 実態として、北条氏は景虎関東侵攻に対し加賀・越中の一向宗徒を侵入させ上杉氏を衝くことを本願寺に依頼し、その見返りとして北条領国において一向宗「禁教」を解くとしたのであり、本願寺との交渉を有利にするため六十年前より「禁教」していたと主張していたため「一向宗禁教」が定説になった。
「定説」を鵜呑みにしがちな私達ですが、出来る限り事実を追求することの大切さをこの論稿により学びました。

報告者 松島 俊樹

ご先祖様探検隊 番外編 浄土真宗あれこれ

2021年 8月13日

 浄土真宗のあまり知られていないあれこれについておしゃべりをしました。
・小田原・足柄の浄土真宗寺院
・五箇山十日講衆連判状
・薩摩のかくれ念仏
・北陸の信徒、北関東・相馬へ

報告者 松島 俊樹

曽我兄弟と虎の歩いた道

2021年 7月 9日

 曽我から大磯までの丘陵などを通る鎌倉古道は曽我兄弟と兄の十郎の恋人の虎が歩いた道といわれています。この鎌倉古道を歩いて巡った場所と遺跡が地図と写真で紹介された。
① 曽我の里(神保家阿弥陀堂の祐信・満江御前の木像、兄弟が遊んだといわれる木刀)
② 六本松~中村郷(明澤の兄弟顔洗い井戸) 

③ 中村郷(古中村湖、湯場と貝塚)
➃ 川勾神社~吾妻山(川勾神社の五郎と十郎の力石、嘶き窪の馬蹄石)
⑤ 吾妻山~馬転ばし(知足寺の駒止めの跡、五郎の乗鞍、兄弟の供養墓)
⑥ 秦野道~石神台(こうづけ・しもつけ、秋葉神社) 
⑦ 石神台~化粧坂(五郎の力石、化粧の井戸)

​報告者 諸星

旧小田原城主大森一族とその末裔たち

2021年 6月11日

 北条早雲に小田原城を追われた駿河大森氏の子孫は
氏頼―実頼の系統の①江戸幕府旗本になった江戸大森家、②水戸徳川家に仕えた水戸大森家、③甲斐国で土着した甲州大森家、④氏頼―藤頼系の備中早島に定着した備中大森家がある。
 幕末期の水戸大森家の忠怨(ただのり)は水戸藩天狗党の争乱の時、佐幕派であったので攘夷派に殺害された。備中大森家は江戸時代に大庄屋、明治維新後に戸長、明治30年早島町町長を務めるが、その後郷里を出て神戸に移った。

​報告者 片桐

年代測定技術の進歩が歴史を変える

2021年 5月14日

 近年、PCR法と次世代シーケンシングによるDNA解析技術の著しい発展、および炭素14を用いた加速器質量分析法と暦年較正基準の精度向上によって、文書記録のない先史時代の歴史が見直されている。
1.遺骨に含まれるDNA解析
 例えば、縄文人、弥生人、現在日本人のミトコンドリアDNAハプログループを解析することにより、「縄文人」とは後期旧石器時代から始まる南方の東南アジア・西方の中国大陸・北方の大陸沿海州から渡来してきた人々の1万2千年にわたる混血によって形成された日本独特の集団であり、「弥生人」とは気候変動によって混乱した長江文明の中国大陸から稲作を持ち込んだ3000年前に始まる渡来人集団であって、現代日本人はその「縄文人」と「弥生人」の混血であることがわかってきた。
2. 遺跡の動植物に含まれる炭素14の年代決定
 現在、炭素14の測定値の世界標準較正曲線として、福井県にある水月湖の堆積物「年縞」データおよび日本産樹木10本の「年輪」データが採用され、現在から5万年前までの年代決定精度が大きく向上した。その結果、最古の縄文土器の年代が3500年さかのぼって「縄文時代の始まり」は1万6000年前になり、また稲作最古の板付遺跡の土器付着炭化物の年代が500年さかのぼって「弥生時代の始まり」は3千年前になった。

​報告者 宮原

源頼朝はどこを通って鎌倉に入ったか

2021年 4月 9日

 頼朝は治承4年(1180年)に旗揚げして石橋山の戦いで、大庭景親の率いる平家軍に敗れ、真鶴から舟で安房国に渡った。下総国から江戸川・隅田川を渡り武蔵国に入った。
 通説では隅田からは武蔵の国分寺を通り相模国を南下して鎌倉に入ったといわれている。
 報告者は通説のコースは遠回りになり、大庭景親や俣野などの本拠地近くを通り危険である。また、このコースでは相模に入ってからの鎌倉までの距離が長く鎌倉入りの軍揃えを行なうには不適切。佐奈田与一を供養した證菩提寺が故郷でなく、鎌倉に近い横浜市栄区にあることから、隅田から東京湾沿いを南下し、鎌倉から最も近い武相国境を越えたのではと考え、更級日記などで古道を調べて推定した。
 頼朝は隅田~日比谷入江~大井~丸子の渡し~弘明寺~小坪道~朝比奈を通って鎌倉に入ったと考えられる。

​報告者 鳥越

ペリー艦隊は小田原湾(相模湾)で何をしていたか

2020年12月11日

 ペリー艦隊は1853年7月浦賀に来航、翌54年2月に再度来航し、砲弾も発射することなく平和的交渉により、3月3日に日米和親条約を締結した。
 2回目遠征で先行して那覇を出港した帆船が無風のため駿河湾を迷走したこと、帆船マセドニアン号が三浦半島西岸の長井沖で2月11日座礁した事件はあまり知られていない。離礁するため砲弾や予備の帆柱、飲料水などを海に捨てた話も初めて聞く人がほとんどだった。タイトルの小田原湾とは、ペリー艦隊が相模湾のことを勝手に名付けたことも紹介された。2月12日相模湾に到着した蒸気船3隻のうちミシシッピ号がロープで引いて帆船を救助した。夕方になり航行が危険なため、ペリー艦隊6隻がその場で夜を明かした。翌13日夜明けに画家ハイネは、バラ色に染まった富士山「紅富士」を描き、「BAY OF WODOWARA」と題した石版画で『ペリー艦隊日本遠征記』に掲載されている。
 奥津弘高氏は日本側の異国船発見を伝える古文書(二宮町山西の「川勾神社日記」と伊豆大島町の「御用之留帳」)などと並行し、アメリカ合衆国で調査したペリー艦隊の航海日誌や乗組員の日記などを検証し、史料を撮影した写真を添えて講演で開示した。その中で、座礁現場に漕ぎよせてマセドニアン号の救助を申し出た浦賀奉行所の親切な行為についても、日米双方の記録を調査研究して発表した。まだ調査中とのこと、新たな発見が期待される。

​報告者 奥津 弘高

曽我物語のものがたり2

2020年11月13日
  • 曽我物語はどのような話か。東国のビンボウで一途な若き兄弟の仇討の物語。

  • 曽我物語はどのよにして生まれたか​。同じ語り物の平家物語と対比しながら本が先か、語りが先か、作者について、建礼門院と虎女の比較など物語の成立を考察した。

​報告者 青木

曽我物語のものがたり

2020年10月02日
  • 摺袈裟の版木のものがたり。室町時代初めに五郎太夫が急死した折に冥府の十王から「触れれば三悪道で苦を受けるものも解脱する」いう袈裟をもらい受け、甦った。五郎はこの袈裟を版木にして修善寺に寄進した。北条早雲は修善寺により版木を譲り受けて荏原庄の宝泉寺に寄贈したと伝えられている。

  • 五郎 ごろう ごりょう 御霊への転訛のものがたり。恨みを残して死んだ者の怨霊は霊を鎮めて神としてまつれば御霊となる。(御霊信仰)

  • 曽我兄弟の墓は各地にある。西は伊予国宇和郡、北は山形県米沢にある。

  • 虎御前の墓は更に多くある。南は日向国志布志、北は信州善光寺。

  • 虎女と虎ケ石ついて。

  • 曽我兄弟の子孫の伝承

  • 曽我物語の成立と真字本(まなぼん)、流布品について

​報告者 青木

小田原藩士有浦家について

2020年09月11日
  • 1649年佐賀県唐津で大久保忠職に仕官した松浦党有浦氏は大久保氏と共に1686年に小田原に移動、以来2016年まで続いた家です。

  • 有浦家は700年以上存続しただけでなく中世から近世の膨大な古文書を保管、1989年に中世文書を佐賀県立図書館に、1991年に近世文書を(旧)小田原市立図書館に寄贈した功績は特筆されます。

  • 今日はこの中世文書に基づき蒙古襲来・南北朝争乱・戦国時代・朝鮮出兵・島原の乱などに翻弄されながらも生き抜いてきた有浦家の人々の姿を伝えます。

​報告者 松島

「日本人そもそも、日本語そもそも」

2020年08月14日
  • 加速器質量分析法、遺伝子解析の進歩などにより「日本人の起源・日本語の起源」の記述が様変わりしており、「二重構造モデル」による「日本人の起源と日本語の起源」を紹介する。

​報告者 宮原

曽我兄弟の仇討は単なる親の仇討ではなかった?

2020年07月10日
  • 死傷者が多いいこと、同夜の多気一族の逃亡、その後の 範頼の追放、大庭景義・岡崎義実の出家・追放などの 吾妻鑑の記事は仇討とするには疑問がある。

  • 従来の諸説    北条時政による頼朝暗殺説。相模武士団による頼朝・時政暗殺説などがある。

  • 報告者の推論

  • この事件は北条氏と相模武士団との武力抗争で相模武士団が敗れた。兄弟は相模武士団の一員とし工藤佑経を討つ。

​報告者 諸星

「下曽我の昔」聞き書き ー 古老にお聞きした

2020年02月14日
  • 昔の公道

  • 曽我にあった沼 小海について

  • 古代の小海の水運利用

  • 山崎金五右衛門の排水溝構築による小海新田開発

  • 曽我氏の事

  • 曽我山と千代台地

  • 曽我山にアメリカ軍迎撃の大砲陣地。曽我への学童疎開

​報告者 諸星

板碑の盛衰と中世について

2019年12月12日
  • 仏を表す梵字の種子や仏像等を彫った板状の石の供養塔の板碑(いたび)は中世に造られた。埼玉県の例では1360年代に制作数がピークであった。

  • 地域的に偏り、関東に70%がある。

  • 制作者の名は初期の姓名のある個人名から無性の個人名が多くなり、時代が後になると個人名から集団名が多くなった。

  • 中世はいつ始まったか。土地所有制度から見て、公領が減少し荘園が多くなった院政期の1100年代から始まったと近年は云われるようになった。

​報告者 松島

小田原市の博物館構想を見る

2019年12月12日
  • 博物館基本構想が平成28年度に作成された。

  • 基本的な考え方は小田原の歴史を未来に伝え市民とつくる博物館。すなわち小田原の歴史をたどり、小田原の宝を守り、まちを丸ごと博物館にする。

​報告者 青木

北村透谷と交友のあった紅蓮洞・坂本易徳と同時代の人たち

2019年11月08日
  • 紅蓮洞(ぐれんどう)は雑文家。文壇と演劇の消息通として知られていた。

  • 慶応2年に小田原藩士の子として江戸で生まれ、小田原で少年時代を過ごし、慶応義塾を卒業後、新聞記者、雑誌記者などをしたが、長続きしなかった。文学者と交わり、奇癖の逸話が多く、放浪生活の窮乏のうちに亡くなった。佐藤春夫は『都会の憂鬱』で「ゴトさんは恰も正当な権利のような顔をしてしばしば彼等(学生)から小遣銭を徴収した」と書いている。

  • 旧小田原藩総没落という時代の変革の中で紅蓮洞と同時代の人として、透谷の父北村快蔵、小田原紡績の経営を任された神原富文、アメリカに渡った相澤親之介などいる。

​報告者 青木

土肥実平の末裔たち

2019年10月11日
  • 遠平の嫡男の惟平は和田義盛の乱で義盛に味方して処刑されて惟平が相続した早川荘は没収されたが、遠平はこの乱には無関係で土肥郷と安芸国怒田荘の没収を免れ、実綱の時勢力を回復した。

  • 頼平が越中土肥氏となり、戦国時代に国人として活躍した。

  • 遠平の養子の景平系小早川氏は安芸国沼田荘を相続した。戦国時代の小早川隆景、秀秋に続く。

​報告者 青木

里修験について

2019年10月11日
  • 里修験とは徳川幕府の宗教政策で、山岳修験が里に下り定住した修験。

  • 明治元年の神仏分離令と明治5年の修験道廃止令によって修験寺院の多くが廃寺となった。

  • 小田原には修験の寺院は満福寺、妙力寺、大光院、大乗院、量覚院の5ケ所がある。 

​報告者 諸星

いろいろな史観

2019年09月13日
  • 皇国史観、唯物史観、梅棹忠雄の生態史観論と川勝平太の海洋史観論および松浦茂樹の国土経営史観論を紹介。

​報告者 佐久間

小田原の板碑

2019年09月13日
  • 鎌倉・室町時代の墓、供養塔である下記の石の板碑を紹介。

  • 居神神社、宝金剛寺、小田原城、量覚院(秋葉山)、山北などの板碑。

​報告者 青木

「仮説”をたわら宿”から”小田原宿”へ」について

2019年08月09
  • 「小由留木」→「小田原」説に疑問を持ち、事例→結果→仮説のサイクルの「推論の素過程」の方法で仮説を創出(アブダクション)する。仮説を創出することも歴史の楽しみ方の一つである。

​報告者 宮原

酒匂・鈴木家のルーツ・歴史

2019年07月12日
  • 源義経の家来で義経と共に戦死した鈴木三郎家重の子が家を継だ。

  • 鈴木大学頭成脩は弓の名手で小田原北条氏に仕え、天正の小田原合戦で渋取り口で戦死。

  • 鈴木家は度器制作の幕府御用を務めた。

  • 明治8年度量衡取締条例が公布され、免許鑑札を受け制作販売し、小田原物差として繁昌した。

​報告者 鈴木

中井町半分形の大日如来像の由来

2019年07月12日
  • 半分形では最初の大日如来像が盗まれて、再び作ったと伝えられていた。平成になり古文書が発見され、最初のお像は山形県にあることが分かった。

  • 曽我兄弟の仇の工藤佑経の子がお像をもって落ち延びたと云われている。

​報告者 松島

小田原周辺の古代~中世の鉄に関する遺跡

2019年06月10日
  • 「南足柄市タタラド製鉄遺跡」と「早川の製鉄遺跡」を紹介。

​報告者 宮原

小田原北条氏2代氏綱の正室養珠院の出自

2019年06月10日
  • 鎌倉北条高時の子・時行の孫・時任が尾張国横江に土着し、子孫が横井を名乗った。養珠院は伊豆に移住した横井氏の出身ではないかと推考した。

​報告者 山口(正)

鳥越家のルーツを紹介

2019年06月10日
​報告者 鳥越

里修験って何だ?

2019年05月10日
  • 近世以降、村に住み祈祷などを行った修験者について紹介

​報告者 青木

修験とは?  行き当たりばったりつまみ食い

2019年05月10日
  • 能・狂言に描かれた修験者、山北のお峰入りの民俗、行事、日向薬師、後北条氏の修験役などをおしゃべり

​報告者 松島

御師の家 伊勢の山田大路家のこと

2019年04月12日
  • 伊勢神宮の御師の大路家について紹介

​報告者 田中(青木)

大久保さん、400年の歩み 北条、北条と言うけれど

2019年03月08日
  • 大久保氏が小田原に再入府以来小田原城天守閣に天守七尊が祀られていたが、明治維新の後の廃城後、永久寺に祀られた。

  • 現在、再建天守閣にはそのうちの一つ摩利支天が祀られている。

​報告者 松島

安叟宗楞の生年と没年

2019年02月08日
  • 小田原市史などに記された安叟宗楞の生年と没年を『梅花無尽蔵』、『続日本洞上諸祖伝』、『日本洞上聯燈録』などの文献で検証を試みた。

​報告者 青木

中本寺

2019年02月08日
  • 大雄山最乗寺は関東甲信越奥州に教線広げ、関東に100寺、甲信越奥州に64寺合計164寺があった中本寺を紹介

​報告者 佐久間

 小田原史談会では平成28年9月より「大森氏おしゃべり倶楽部(OOC)」として大森氏をおしゃべりして来まして、平成30年5月の展示会で終了しました。引き続き、活動名を「小田原おしゃべり倶楽部(OOC)」とリニューアルして、参加メンバーの自由研究をおしゃべりしています。