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​小田原おしゃべり倶楽部

「富士フイルム『渡満隊』と満洲映画協会について」

2024.11.8 荒河 純

 太平洋戦争終戦間近の昭和20年3月、満洲映画協会(満映)理事長の甘粕正彦が突然、富士写真フイルム足柄工場(南足柄)に現れた。関東大震災直後に起こった「大杉栄殺害事件」の犯人として、甘粕元憲兵大尉は当時の超有名人であった。その甘粕から「満洲に来い。満洲に工場を疎開して映画用フィルムを作ってほしい」と直談判された当時の社長の春木栄にはこれを断る術は無かった。春木は早速「渡満隊」を結成して70余名の社員を選抜、足柄工場の約2割の機材を満洲の新京に向けて送った。しかし、これらの機材は米国の魚雷によって悉く沈められるか輸送不能に陥り、満洲に届くことは無かった。間もなく参戦したソ連軍が満洲に進出してきたため、社員は命からがらの脱出行であった。

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 満洲映画協会とは満鉄と満洲国の共同出資の国策会社であったが、二代目の理事長に甘粕が就任してから、「満洲人による満洲人のための娯楽映画」に力を注ぎ、満洲人の映画監督、脚本家を育てた。また、右も左も関係無く仕事ができるかどうかだけで採用したので、本土から追放された左翼転向者も多く受け入れた。これら甘粕が行った施策は,その後の中国映画界の実質的な礎になったと同時に、彼の精神は戦後日本の映画界、特に東映の任侠路線などに大きな影響を与えたと考えられる。

(文責 宮原)

「私とモネの白内障 色彩変化と手術の歴史

2024.10.11 宮原諄二

 話は、目の検査の帰り、夜の通りに出てみたら、にじんで丸くなった大小の無数の光で満ちあふれていたファンタスティックな光の世界に出くわしたことから始まりました。手術のスケジュールから、手術前の目(高齢)と手術後の目(幼児)が片方ずつ共存する期間が一週間のあることから、「これほど貴重なチャンスは人生で二度とない。片目ずつ観察して色彩の違う世界を体験したい」と、「実験心」を起こしたのです。

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 色の認識の仕組みを簡単に説明した後、シュヴルール(19世紀フランスの化学者)の「色彩調和論」(=色彩は視覚現象であり、純色の点で構成された画面は網膜上で混色される)へと展開していった。スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を例に引いて点描による絵画表現を解説された。この「色彩調和論」は印象派画家たちに大きな影響を与え、さらには現在の網点によるカラー印刷やカラーテレビの実現にも結びついたと話が進んだ。

 手術後の右眼(子供の眼)でみる白いカーテンは、白内障(高齢者の眼)では黄色に見えたはずだが、やはり白いと認識していて、ヒトは対象物を“実際の色”ではなく「学習色」や「記憶色」で見ていることを実感したという。画家モネの事例では、「睡蓮の池」「日本風太鼓橋」「バラ園から見た画家の家」等の画像をいくつも挙げて、白内障手術前では全体がボケて赤みがかった絵が手術後には全てが青白く描かれているという色彩感覚の変化を丁寧に解説された。

 おまけとして、現在の「アクリル樹脂製眼内レンズ手術法」という画期的な発明は、第二次大戦の初期にドイツ機により撃墜されたイギリス空軍機パイロットの失明症例をきっかけにして、ガラスではなくアクリル樹脂なら目の中で異物反応を起こさないことを発見した眼科医リドレーによるものとのことでした。 (文責 青木/宮原)

中村郷に来た武川衆(曲淵一族)

2024.9.13 関谷 満

 武田氏は織田信長・徳川家康の連合軍に敗れ滅亡した(1582)。信濃国・甲斐国の支配は空白状態になった。信長は武田家臣の雇用を厳しく禁じていたが、家康は密かに武田の家臣を匿い、その中でも甲斐国の辺境武士団である武川(むかわ)衆を信濃・甲斐に遣わし、短時間で大半の武田家臣を従わせ平定できた。そのこともあり、家康は武勇に優れた武川衆を優先的に召し抱えている。後北条氏滅亡後、家康の関東移封に伴い、武川衆のうち曲渕吉景氏と米倉信継氏は相模国中村郷に移った。曲渕氏の長であった吉景(よしかげ)は信玄と家康にも可愛がれた特異な人物であった様でさまざまな逸話や演者による詳細な家系図が紹介された。

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(文責 宮原/関谷)

子孫にあたる旗本曲渕景漸(かげつぐ)は江戸北町奉行になり、小塚原の刑場での腑分けを杉田玄白や前野良沢らに見学させることを許し(1771)、「解体新書」出版(1774)への道を開いた。曲渕景漸はのちに松平定信に抜擢されて勘定奉行になり、定信失脚後も勤めている。曲渕家の末裔は今日まで中村郷(中井町)に存続している。曲渕吉景は相模国足柄郡雑色村の玄張寺に埋葬され墓も存在しているが、公式な墓所は曲淵氏発祥の地である甲府の清泰寺にある。

「伊能忠敬測量隊の湯河原~小田原の足跡 パート2」

2024.8.9 加藤雅喜

 8月は前月に続き、「伊能忠敬測量隊湯河原研究会」代表の加藤雅喜さんのお話です。
 伊能忠敬は後家さんに婿入りし、3億円の身代を45億円にして50歳で引退し、地図作成に第二の人生をささげた。
 緯度測定のため北極星の高度を測定する象限儀の紙模型を紹介。根府川関所で引き止められ、通行が容易にするため作った測量「御用旗」模型を展示・紹介された。
 幕府は異国船接近が多くなり、江戸湾防衛のため伊豆半島・三浦半島・房総半島の正確な地図が必用になり、作成を命じた。
 「測量日記」に記録された地名・寺社などは現在では分からない場所が多くなり、調査している。「測量日記」を読み、記載されている地名を「ゼンリン詳細地図」に記載された地名と突き合わせて話されたが、現在では多くが不明となった。

(文責 山口)

「伊能忠敬測量隊の湯河原~小田原の足跡と測量技術」

2024.7.12 加藤雅喜・上田尚彦・尾崎和

「伊能忠敬測量隊湯河原研究会」(代表・加藤雅喜氏)は、江戸時代後期に海岸線の正確な地図を作ろうと日本全国を測量した伊能忠敬測量隊の『測量日記』を読み解き、最初と最後に測量した「小田原~湯河原」の足跡を尋ね調査している。伊能忠敬は地球の大きさを測りたかったので、幕府には海防のためと海岸地図作成の測量を願い出た。

(1)「伊能忠敬測量隊湯河原研究会」の代表・加藤雅喜さんが伊能忠敬測量隊と『測量日記』について話され、『伊能忠敬測量日記』の小田原~湯河原の部分、伊能忠敬作成の最近まで未発表で平成8年に発行された小田原~湯河原の延図、『測量日記』に記された海岸地名の同定活動などを紹介された。

(2)土地家屋調査士の上田久彦さんが測量隊の測量技術について、そして現在の人工衛星を利用したGPSによる測量について話された。

(3)尾崎測量機社長の尾崎和さんが従来の測量器と測量用GPS信号受信器を実物で説明された。

                                   (文責 山口)

「幕末の小田原藩の風景―ある下級武士の生涯を通して」

2024.6.14 鳥越銑之助

代官手代して仕えた下級武士の生涯を通じて幕末の小田原藩を捉えた物です。番帳入りの中級武士の三男として生まれ、番帳外の下級武士の家に養子に出て、組合取締役を勤める大名主(後に三筋惣代取締役)の娘を娶ります。代官手代として西筋御厨領を皮切りに中筋や東筋、平塚・大磯宿を担当します。その間の村々の出来事、村々から中元・歳暮・お礼が送られる事などが、御殿場・小田原・南足柄市史から伺われます。

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又、二宮尊徳全集の日記部分から嘉永5年の尊徳と小田原藩の報徳金返還交渉にも立ち会って居ました。

小田原藩の大磯・平塚駅逓掛りとして幕末・維新を迎え、この間の活躍により番帳入りを果たし、廃藩置県の小田原県で権少属租税・駅逓掛りとして役目を終わります。

「『小田原大秘録』の現代文訳を出して」

2024.5.10 鳥居泰一郎

「小田原大秘録」とは、江戸時代の大久保氏五代の約100年間にわたって小田原藩士たちが見聞したり、経験したエピソードをまとめた全12巻の古文書です。そのうち残された4巻以降を片岡永左衛門氏が書き写し、鳥居さんはそれを現代文に訳し、2004年に出版しました。その後関連した史料を調べていくと、「古餘綾(こゆるぎ)見聞志」なる同じような内容の古文書が見つかり、また行方不明となっていた1巻から3巻も見つかりました。

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編者も実在しているはずですが、わからなかったとのこと。これらの資料では多くの藩士たちの名前が出てきます。鳥居さんは「寛政重修諸家譜」や「分限帳」などの古い史料を調べ、関東各地の菩提寺を訪ねて歩いて、名前が出ていた一人一人が実在の人物であるのどうか、墓石を確認するという手間をかけ、そのために出版までに6年間かかったとのことでした。その追求する行動には感服しました。(文責:宮原)
参考:1.「現代文訳 小田原大秘録」(鳥居泰一郎訳、平成16年12月18日発行)
        2.「『小田原大秘録』への疑問」(鳥居泰一郎:扣之帳.22号2008 p.54-57)

「中世小田原の郷土料理について」

2024年4月12日
米山 昭

小田原駅前で割烹「米橋」を始めて50余年。米山さんは中世小田原の郷土料理に関心を持ち、調理人からの視点で古い資料や調理法を調査し、研究し、再現するとの活動を行ってきました。まだ現在のような多様な調味料がない時代、上方の料理が関東に伝わってくる過程で、中世北条氏の時代では小田原特産の海産物などの食材を使い、塩・塩梅・みそなどを用いた一品物の料理「まろうづくり(丸づくり)」が発達したと言います。その代表的な料理は「沖なます」。その意味では小田原は「一汁三菜」のようなシステムとしての料理は発達しなかったと言います。箱根温泉の湯本に客を取られたことも大きかったとのこと。

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話は、味がわからない「舌が悪い」お客、形や色はきれいだがおいしくない「見せ仕事」をする料理人、旦那仕事を優先して料理の腕のない料理屋の亭主などの内緒話、また明治時代に小田原にも住み、小説「食道楽」を執筆して和洋中料理について詳細に紹介した村井玄斎の話、もしも実現していたら小田原の料理の質も変わったであろうというフランク・ロイド・ライト設計の「小田原帝国ホテル」の話など、多岐にわたる興味深い話がありました。後日,「米橋」にて「中世小田原の郷土料理を食する会」が行われました。なお「小田原帝国ホテル」に関しては「幻の帝国ホテル・小田原ホテルの謎」(わたなべゆきお著、Kindle電子書籍版,2016)などがあります。(文責 宮原)

「浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウ」

2024年3月8日
石井敬士

20世紀の初め、フランスの植民地となっていたベトナムは独立を目指すようになりました。その指導者ファン・ボイ・チャウは日本に渡って独立運動を展開しましたが、その時の最大の支援者が前羽村(現小田原市)の医師浅羽佐喜太郎でした。フランスの圧力もあって日本での活動は5年余の短い期間でしたが、その後佐喜太郎の死を知ったファン・ボイ・チャウは1917年に謝恩の石碑を彼の故郷(現袋井市)に建立しました。ファン・ボイ・チャウはベトナム独立の父として、また浅羽佐喜太郎は彼を助けた恩人としてベトナムの小学校の教科書にも出ていて、ベトナムでは広く知られているそうです。

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2017年にはベトナムのフエにある「ファン・ボイ・チャウ記念館」を当時の天皇・皇后も訪問されて、ベトナム独立に貢献した日本人浅羽佐喜太郎を初めて知って驚かれたとのこと。日本がベトナムの独立と関わったこの歴史を、浅羽佐喜太郎の地元である小田原市民にばかりでなく、日本でも広く知られてほしいものです。当日は、このエピソードが広く知られるようにと本の出版に尽力された故秋澤鞠子さん(江戸民具街道博物館)のご子息、秋澤 傑さん自作による紙芝居が上演されました。(写真:石井敬士さんと秋澤 傑さん)

*参考資料:石井敬士:「浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウ」(「小田原史談」,271号.2022年)

(文責:宮原諄二)

「南足柄の山車屋台文化を考える」

2024年2月9日
新谷一文

南足柄市には、古くから祭りの主役として欠かせない山車屋台が江戸時代の製作と思われる6台を含め30台が残っています。小田原市にもこれ以上の数があったようなのですが、戦災や地震・火災で消失してしまったとのこと。南足柄の弘西寺には昭和4年に小田原魚河岸から譲り受けたとの証文のある山車があるそうです。新谷さんはこれらの山車屋台および彫られている彫刻を丹念に調査し記録する活動を続けている過程で、川越の氷川神社、鴨川市の大山寺、東京葛飾柴又の帝釈天、神田明神など関東各地の神社やお寺にも形状の似ている彫り物があることから、これらに共通する彫り師を調べ、安房の名工である江戸後期の武志伊八郎信由(現在の鴨川市生れ)や江戸末期の後藤義光(現在の南房総市生れ)およびその系統の彫り師たちが、南足柄の山車屋台や神社ばかりでなく、熱海の伊豆山神社などの彫り物にも深く関わっていることを明らかにしました。

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なお武志伊八郎は「波の伊八」と呼ばれ、夷隅市の行元寺にある彼の欄間彫刻「波に宝珠」は北斎の浮世絵「神奈川沖浪裏」に大きな影響を与えたと言われています。最近では山車屋台を引いたり、踊りや仮装行列などの「付け祭り」をする若手や人手に不足し、山車屋台の出る祭りはとても少なくなりました。新谷さんは仲間たちと共に山車屋台の再演の機会を企画したり、古くなって破損した山車屋台の修理・修復などの活動を行っているそうです。(文責 宮原)

「古書 掘り出しもの 四方山話」

2023年12月8日
高野 肇

 高野さんは小田原市内唯一の古書店「高野書店」の店主として、郷土史関係資料や古絵葉書などを専門に扱い、地域の文化を支えて来てくれました。古書の入札は、全国の古書店主が毎週火曜日に神田の神保町にある東京古書会館に集まって行われ、短時間で何万冊もの古書がやり取りされるので、目の前の古書が自分の顧客(通常は研究者)の期待する資料であるのかどうか、滅多に出会わない貴重資料であるかどうか、高価でも購入すべきであるかを一瞬に判断しなければなりません。まさに勝負の世界で、瞬間的に値段を決め、用意された封筒に入れて結果を待ちます。100円差で負けたこともあるそうです。終戦直後の漫画本に五百万円の値段がつくこともあったとか。今回は高野さんが出会った古書の中から、江戸時代の酒問屋一覧、江ノ島が上りの旅双六、奉行所への横浜港出店願書、明治初期の横浜基督教会月報、上りが吉原の江戸名所巡り双六、明治初期横浜商人番付図、元禄時代の大阪書肆屋の関連資料、伊勢山田書肆屋の関連資料、文政年間の奇人伝の版木、箱根旧東海道整備の見積書、秩父困民党事件関連資料、異国船渡来時の兵糧方の諸記録、伊能忠敬測量隊の随員の旅日記、貸本屋しらかば文庫の蔵書目録などについて、エピソードを交えながら古書の奥深い世界を語っていただきました。(文責 宮原)

私のルーツ③原始篇:「ヤポネシア人の起源について」

2023年11月10日
荒河 純

 21世紀になって新しい研究ツールが開発され、古代史研究は様変わりしている。その代表的なものが古代ゲノム解析である。古代ゲノム解析の方法を出来るだけ分かりやすく解説することを試みた。それらのツールを用いて得られた人類の起源、ヤポネシア人の起源について述べた。
 約20~40万年前にアフリカで誕生した新人(ホモサピエンス)は約10万年前に全世界に拡散。ユーラシアで旧人(ネアンデルタール人、デニソワ人)と交雑しつつ置換していった。この新人の一部集団が4~3万年前にヤポネシア(日本列島)に到達し、やがて1万6千年前くらいになると土器を発明して縄文人となった。約3千年前に南方から水田稲作技術を持った集団が渡来して、先住民である縄文人と混血しつつ急激な人口が増加をもたらした。
 これは私見になるが、1900~1700年前に朝鮮半島東部から多くの集団がヤポネシアに流入、一部は製鉄技術を持った集団が山陰地方に定着し、更に多くの集団が若狭から能登に入りヤマト政権樹立に貢献した。

「根府川における関東大震災の記憶」

2023年10月13日
内田 照光

1923年9月1日、小田原市の根府川地区では白糸川で発生した土石流により集落が壊滅し、また山腹崩壊により根府川駅に停車中の列車が巻き込まれるとの災害により、合計289名という死者を出しました。これは関東大震災における自然災害としては最も大きな災害でした。内田昭光さんの父内田一正さんは10歳で大震災に遭遇し、幸運にも生き残り、60歳くらいから災害の様子を綿密に調査し記録として残す活動を行なってきました。昭光さんもまた父上の資料や歩いて調査した資料などをもとに、自ら経営する「離れの宿 星ヶ山」に展示室を設け、また大震災の記憶を残そうと地域に発信し、次なる災害に備えようとの活動を続けています。内田昭光さんの調査によると、前日の8月31日に大雨が降った上に、白糸川上流にあった池が地震で決壊して大規模な土石流となり、流域の斜面を蛇行しながら家々を巻き込んでいったのだそうです。生き残った100名ほどの人たちは食べ物を分け合い、12月に実ったみかんが売れて、かろうじて生き延びることができたとのこと。現在私たちが歩き、また家が建てられている土地の下には亡くなった多くの人たちが今なお眠っているとの話もありました。最後に。内田さんの孫が記憶の語り部として跡を継いでくれそうだとの言葉が印象的でした。(文責 宮原)

「日本ミツバチ飼育の奮闘話」と「養蜂の歴史について」

2023年9月8日
今宮 格

10年ほど前に読んだ農業雑誌に日本ミツバチは西洋ミツバチと違い環境が.悪くなれば勝手に「逃去する」ところに魅力を感じ飼育を始めました。日本ミツバチは蜜源に対して単独行動をとります。巣箱への入居判断は日本ミツバチ自身であるため、巣箱を設置し、巣の搾りかすを煮て匂いを出し、その場所に蜂がいるかどうか判別した後、特殊な誘因の花などを置き入居を待ちます。主な蜜源はビワ、梅など主に樹木の花蜜ですが、秋に咲くセイタカアワダチソウも冬越しのための重要な蜜源になっています。入居後の採蜜は年二回、5月と9月中旬から10月初めに貯蜜状況を勘案し行います。日本ミツバチの天敵はオオスズメバチで、粘着シートなどで捕獲します。巣の脱落やアカリンダニに寄生され死滅するという想定外の出来事もあります。分蜂時に次の場所を決めるなど巣の方針を決めているのは女王バチではなく働きバチです。つまりミツバチの世界は共和制アマゾネス社会です。日本の養蜂の歴史は古くは「日本書紀」にミツバチの記載があります。本格的に行われるようになったのは江戸時代からで、1708年(宝永5年)に出版された貝原益軒の「大和本草」は、養蜂を体系的に編纂した生物誌として知られています。

富士山宝永噴火と足柄平野 酒匂川流路の変遷

2023年8月11日
田代 治

富士山山体崩壊(2900年前)による「御殿場泥流」で埋め尽くされた足柄平野を、酒匂川は古来より流路を変えながら海に流れ出ていた。南足柄市史によれば、「中世戦国期の酒匂川は平野部を数本の川が自然のままに流れていた(図:乱流時の推定流路)」ので、小田原藩を拝領(1590)した「大久保忠世は酒匂川の水系を整理統合し足柄平野のほぼ中央部に変更させる工事(図:現流路)に着手した」とある。しかし地層・地質の観察をした結果では、乱流時に酒匂川が足柄平野の西側に流れていたとの痕跡は見出されなかった。なお酒匂川の流路は曽比付近から仙了川筋を流れて狩川と合流し、飯泉付近から中新田・下新田を経て酒匂で相模湾へ注いでいたとの可能性(図:別流路)もある。しかし富士山宝永噴火(1707)による大量の土砂によって、酒匂川は大口付近にできた自然堤防に妨げられ、足柄平野の西側を流れるようになった(図:噴火後の氾濫流路)。その後、長年にわたる困難な復旧工事が行われ、元の流路(図:現流路)に戻すことができた。酒匂川流路の変遷を明らかにすることは、治水対策の根幹をなす課題であって、地形・地質を含む河川の専門家の調査によって結論が出されることを期待したい。 (文責 宮原)

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酒匂川流路の変遷

「相模国飯泉志稿」からみた江戸時代の飯泉村

2023年7月14日
山口隆夫

本書は飯泉観音勝福寺の僧・信明実応が天保十五年に編纂した地誌。大正十年に横浜市史編纂室作成の謄写本が飯泉観音勝福寺に所蔵されていた。上巻、中巻、下巻で構成されているが、下巻は欠落。概要は以下の通り。
飯泉村は霊場飯泉観音、富嶽等への通路、波多野辺より小田原等への往還が通り、飯泉の渡しがあり、駅宿に等しく通行多く、飯、酒、喫茶、旅具等を売る店並び、西郡にての一都会。

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山野へ遠く採萱樵薪の余営なく、柴薪炭材等は山里より来るを買い。山野の余潤なく、柴薪、秣草、炭等に乏しく、農民常に痛め、薪炭は小田原よりも高い。唯水田を耕し米麦を産するのみ。他に鬻(ひさぐ)の品更に無し。富士山噴火砂降り復興7年、洪水復興51年の計58年間上知され幕府領であった。水車の関東での始まり、蕎麦麺の製造の始まり、木綿草の再来舶なども記す。八幡宮は天平神護元年(765)観音創立の時東大寺の八幡宮を勧請。当国にての八幡宮の尤古社たるもの。飯泉山勝福寺観音は関東五番納札場。一山衆徒六院之を護る。

『孫子諺解』考―「兵ハ詭道也」にみる偽りの中の正当性について―

2023年6月9日
阿部美知代

わが国における『孫子』の註釈書として最も古いものは林羅山による『孫子諺解』(寛永三・写本)といわれている。その自序に「講義ノコヽロヲ用ヒテ少シ了簡ヲ加ル」とあるように『孫子』解釈において部分的にではあるが羅山の見解を加えたとする点に注意を要する。
『徳川実記』には大坂冬の陣において家康の傍らに羅山が扈従していた記載がある。大坂冬の陣・夏の陣における家康の様々な調略の記憶は『孫子諺解』「兵ハ詭道也」の解釈部分に投影されていることは充分に考えられる。
そこで今回、冬の陣、夏の陣を一つの話材として取り上げ、「兵ハ詭道也」の解釈に家康の調略を重ね合わせつつ、資料として方広寺大仏鐘銘事件の詳細を記している『山本豊久私記』を、庶民の視点からは報道文学の名で呼ばれている仮名草子『大坂物語』を、更には家康の愛読書『貞観政要』を参考として、家康がいかにして詭道の中に正当性を求めたかを考えてみた。
冬の陣、夏の陣は正当性とは相容れない詭道がありつつも、そこには新時代を迎えるための家康の強い意志によって元和偃武という歴史的転換期を招来したといえる。

「箱根旧街道 甘酒茶屋の今昔」

2023年5月12日
山本 聡(十三代目当主)

 かって付近に4軒あった茶屋は大正時代にはすでに「甘酒茶屋」1軒だけになっていたようです。時と共に旧東海道の古道も忘れ去られて訪れる人もほとんどいなくなり、昭和48年には建物が全焼し、再建にあたっては昔ながらの茅葺き・土間の建物は建築上・衛生上まかりならぬとの行政側のお達しなど、さまざまな試練を乗り越えて、京都で料理修行をしていた現当主が「甘酒茶屋」を引き継いだのは7年前。今では箱根の名所として国内や海外から多くの人が訪れて、賑わうようになりました。山本さんは、現代の旅人がいつでも来て頂ける常夜燈のような場所として、年中無休で朝7時から夕方5時半まで茶店を開き、仕事を“させていただいている”とのことでした。甘酒茶屋は旧街道の景色もよくない不便な場所にあり、土間の冬は寒く、甘酒しか出さない・現金のみでカードは使えないなど、『不便であること』をあえて基本コンセプトにしているようです。最後に、甘酒茶屋を舞台にした馬喰の丑五郎と赤穂浪士の神崎与五郎との侘証文の紙芝居『忠臣蔵』を名調子で演じていただきました。なお毎年12月14日には「与五郎まつり」を行っていて、甘酒も朝10時までは無料ですのでおいでくださいとのことでした。(文責 宮原)

秦野と中井と二宮を結んだ湘南軽便鉄道の話

2023年4月14日
尾上仁郎

 この軽便鉄道は、前身の馬車鉄道も含めて117年前の明治39年から走り始め、昭和の初期には役目を終えて、昭和12年に廃止されました。それから86年も経ち、軽便鉄道の存在自体を知る人も少なくなりました。この地域は江戸中期、富士山宝永火山の爆発で火山灰が降り積り(中井町では50センチ)、農作物は全滅し、一帯は不毛な土地になりました。

その後、この荒地に適する植物として葉タバコや落花生の栽培が行われるようになり、明治31年には葉タバコが国の専売制となって秦野に専売公社の工場が出来ました。これらの産品を輸送するため、地域を守って来た私たちの先祖たちが、国の政治家、学識経験者、経済人、行政者等と一体となって運動し、秦野から中井を通って東海道線の二宮駅までの軽便鉄道を開通させることができました。この軽便鉄道により、秦野駅から葉タバコ・落花生・木材・農産物・綿織物など、二宮駅からは大山詣での観光客・食料品・日用品・軍需物資などを輸送し、地域の発展に大いに貢献しました。富士山の噴火により不毛になったこの地域の人たちがどうやって生き延び、その時代をどうやって乗り越えて来たかを知る上で、この軽便鉄道が果たしてきた役割を私達世代は後世に語り継がねばならないと思っています。

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上野国武将長野氏の歴史と後裔系譜について

2023年3月10日
田和千慧

 戦国時代、上野白旗一揆(こうずけしらはたいっき)勢力の中で力を蓄え、武田信玄の西上野侵攻に立ちはだかった西上野の覇者長野業政(なりまさ)。その存命中は決して武田方に降ることはなかった。後継の氏業の代になり武田方の侵攻に抗しきれず、遂に箕輪(みのわ)城は永禄年代に落城する。

落城後、落ち延びた長野氏一族は越後を始め各地に落ち延びていくが、箕輪城のお膝元に出家しひっそりと暮らす子孫もいた。その子孫の一流が江戸時代260余年の間「長野福田家」と称し長野業政の直孫家として存在していた。その家には天保九年(1838)江戸幕府の命によって行われたという「長野業政公直孫調査」なる古文書が保存されていた。

昭和になり、長野氏の直孫に関しての論争があり、件(くだん)の古文書の評価についても問われることになった。未だかつて古文書の原書が公開されることなく論議されてきたこともあり議論は嚙み合うことはなかった。

歴史の評価と交錯するであろう後裔系譜について今後の研究に待つとした昭和の論議に終止符を打てるのか否かは分らぬが、昨年末、遂に「長野業政公直孫調査」なる古文書の原書を発見するに至った。歴史の扉をたたく私の旅は新たなステージへと進むことになった。

北条幻庵作一節切と小田原の尺八演奏家

2023年2月10日
大村 学

「一節切」は“ひとよぎり”と読みます。現在ではほとんど使われていませんが、室町時代から江戸初期かけて作られた竹の節が一つだけの短い(一尺一寸一分)“尺八”です。大村さんは長年小田原市議会議員をなさってきた方。長崎県平戸島で生まれ育ち、小田原に出てきてから尺八の師匠との出会いがあり、尺八にのめり込み、現在は琴古流尺八の師範。2011年5月にテレビ東京の番組「開運なんでも鑑定団」に鑑定依頼された古い「一節切」が、実は北条早雲の四男で北条氏一門の長老であり続けた北条幻庵 (〜1589)の作であると知り、所有者を探したところ、秀吉の小田原攻めの際に小田原城開城(1590)を説得する使者となった黒田官兵衛の家臣の子孫(大分県中津市在住)であることがわかりました。経緯としては、小田原城を明け渡す際に恩義を受けた黒田官兵衛に北条氏直から贈られたた品々の中に、その「一節切」も入っていたようです。大村さんはこの貴重な「一節切」を譲り受け、小田原市に寄託し、現在小田原城天守閣に展示されているとのこと。当日はこの「一節切」にまつわる数々のエピソードを語っていただき、また武士がたしなんだという「一節切」の演奏と「首振り三年ころ八年」の修行を積むことで多様な音色が可能な「尺八」の演奏を楽しませてもらいました。

(文責 宮原)

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小田原分限帳の話

2022年12月9日
大井みち

小田原では戦国期の北条氏康と江戸時代の稲葉氏、大久保氏の分限帳が確認できる。大久保時代には年代の異なる6つの分限帳があり、これらには家格・氏名・知行高・禄高・居住地・家来などが書かれている。家格とは1.大久保家への仕官順序(仕官地)毎に決められた身分、2.俸禄(知行・切米)とその多寡による身分、3.軍団編成を基準にした身分(侍分・徒士・足軽から中間まで)などで定められた身分であり、分限帳はその「順席」で記載されている。文化二年分限帳を見ると、侍分から中間まで一隊ごとにまとまって居住していたこと、藩主と重役(大年寄・大名分・御家老・御城代・年寄)の下に、「番方」(戦闘組織)/「役方」(行政組織)/「奥」(藩主の日常生活組織)の3つの組織で構成されていたことがわかる。江戸時代後期の藩主大久保忠真は大坂城代、京都所司代さらには江戸老中など各地を歴任しながらも、二宮尊徳を重用して藩政改革を行った。その内容は分限帳から具体的に読み取ることができる。大井さんは、分限帳をただ文字が羅列してあるだけのつまらない史料と思ったけれども、読み解いていくと新たな発見が次々とあり実に貴重な面白い史料と知ったそうです。最後に、一緒に古文書を読みませんかとのお誘いがありました。     (文責 宮原)

小田原の歴史/文化をYouTubeで

2022年11月11日
望月恵太

望月恵太さんは小田原とその周辺の歴史や文化、グルメなどの情報を、YouTubeチャンネル「マイナーズ銀次郎」として発信している“YouTuber”です。YouTubeという情報発信の新しい「場」が、60年以上の歴史を持つ小田原史談会にとってどのような意味・意義があり得るのか、小田原史談会会員になってばかりの望月さんに、You Tubeの概要と映像作品を紹介して頂きました。最初に、前々回の大乗院の役(えん)光明住職による「修験道と山伏の歴史」の話を聴いてすぐに滝修行に参加した映像が紹介され、その行動力に感心しました。次いで「早川漁港の魚市場」、「一夜城」、「富水地区」などの映像作品の紹介がありました。加えて早川駅前広場にある喫茶店「パステル オブ ライト」の画家でありオーナーの伊東さんもまた小田原の歴史大好きな一人であるとの紹介もありました。最後に、望月恵太さんの本業は東京のテレビ局の番組編集であること、登録者がまだ少ないのでYouTubeチャンネル「マイナーズ銀次郎」の登録者になって頂ければうれしいとのことでした。小田原史談会としても、この新しいメディアとの付き合い方を考えるきっかけになってよかったと思います。    (文責 宮原)

神奈川県の土木遺産について

2022年10月14日

山﨑さんは日本の歴史的土木遺産を認定し顕彰する活動を行なっている土木学会の関東支部選考委員です。県内には23ヶ所の土木遺産があり、「明治時代のものは諸外国を手本として早く列国に並ぼうとする姿が見られ、大正から昭和初期のものには関東大震災の甚大な被害の復興に向けた姿が浮かんでくる」そうです。小田原・箱根地域には、1.箱根登山鉄道 2.箱根地区国道1号施設群(旭橋・千歳橋・函嶺洞門) 3.荻窪用水と関連施設 4.旧熱海線鉄道施設群 5.塔ノ沢発電所と関連施設の計5つが土木遺産となっていて、それぞれの遺産のエピソードを語って頂きました。例えば、箱根への道は古来からの旧東海道に代わる「箱根新道」が地元の有志たちによって開設され、関東大震災で壊滅した後に現在の「箱根国道」が作られたこと、現東海道線が開通する前の旧熱海線時代に作られ今だに現役の酒匂川橋梁のこと、現在調査中の「塔ノ沢隧道」は明治の初め旅館「環翠楼」で療養中の皇女和宮にとって早川の音がうるさいだろうと川の流れを迂回させるために地元の人たちによって掘られたと伝えられているが、実際には増水時の洪水を防ぐためのバイパスとして掘られたのではないかとの話でした。(文責 宮原)

報告者  山﨑 仁 

修験道と山伏の歴史

2022年9月9日

大乗院は役行者(えんのぎょうじゃ)の法灯を受け継いだ慧心(えしん)法印により700年代にこの地に(千代)に創建された。洒水の滝を祀る常実坊とともに天台寺門宗・総本山三井寺派に属する密教寺院・祈祷寺である。まず宝剣・桧扇(ひおおぎ)・法螺貝・最多角(いらたか)念珠・錫杖などの山伏装束の説明があった。俗に言う「親玉」とは108個からなる最多角念珠を束ねる大きな玉のこと。修験道は日本古来の山岳信仰と自然の神々を崇拝する神祇信仰をベースにして、大陸由来の仏教などの影響を受けながら平安時代末期に成立した。基礎にあるのは山岳修行によって得られた験力(げんりき)による祈祷・まじないである。大峰奥掛(おくがけ)修行は熊野三山への道であり、定められた75地点があり、その地で経をあげ記を残す。尾根続きの道は水が得にくく、一日15時間・15日間以上の行程はきつい。昔は道に迷うことも多々あったと聞く。現在は三泊四日の三区分行程で行われる。会場から、「静」の坐禅と「動」の荒行による悟りとは何が違うのかとの問に対して、座禅は自分の中に向かう「無」であり、荒行は自分の外に解放する「無」であるとの住職の言葉が印象的だった。(文責宮原)

報告者 大乗院住職 役光明 

「鎌倉殿の13人」と土肥実平について 

2022年 8月12日

現在、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映されている。が、史実ではすでに死んでいるはずの土肥実平が北条義時に「鎌倉殿の13人」に加えてほしいと申し入れる場面も登場した。その他演者からはこのドラマ放映にまつわる興味深い裏話の数々が紹介された。そもそもこの西相模の小領主土肥実平が、なぜ平家打倒の石橋山の戦いで源頼朝に加勢するようになったのか? それは頼朝の父義朝が主導した大庭御厨襲撃により貯蔵米が土肥にもたらされ、住民の飢餓が救われたとの36年前の恩義があったからだという。その後、土肥実平・遠平親子は頼朝から与えられた広島県三原市の沼田荘に移り、本貫の地である小田原の早川庄にちなみ小早川家を名乗った。さらには毛利家とも縁続きとなり、また実平次男の実重は養子として埼玉県深谷市新戒荘に移って新開家となり、子孫達は富山県立山町や徳島県阿南市でなどの各地でもその後の日本の歴史に名を残すことになった。(文責宮原)

報告者 加藤雅喜

古文書よもやま咄し

2022年 7月 8日

1 古文書を楽しむ
小船の船津家文書「小竹村にて狐取り付き候」を紹介し古文書を読む「面白さ」をお伝えします。また「片岡日記を読む会」「たこ乃部屋」など古文書の仲間達の勉強風景を紹介します。

2 古文書を探す
 仲間の中には村方三役の文書を求めて500軒以上尋ね歩いたパワフルな方もいます。詳しくは7月発行「小田原史談」の「あしがり野に住んで85年」を読んでください。
またご先祖様を求めて10年以上「県史」「市史」「古文書」などを訪ね歩いている人がいます。その人の立場で小田原のどこにどのような古文書があるのか考えてみました。すると小田原市の図書館・郷土文化館などは勿論、私自身、史談会自身の課題もかなりあることを痛感しました。
今後進む方向をみなさんと一緒に考えたい、と思います。

報告者 松島 俊樹

小田原市立中央図書館の地域史料

2022年 6月 10日

図書館で扱う地域史料には県内の事柄を記した図書、寄贈された片岡家文書、有信会文書、山縣有朋文庫などの「特別集書」、家蔵古文書史料、図書館独自に収集した新聞・絵画・絵図など、文学資料、寄贈された写真などの視聴覚資料、旧町村並びに小田原市行政文書がある。
小田原市では図書館以外に地域資料・史料を扱う部署に郷土文化館、尊徳記念館、文化財保護課、小田原城天守閣、文学館などがあること、加えてそれぞれの部署間で史料についての情報が共有されていないことが説明された。
図書館の地域史料の利用活用を進めるには、目録の整備やレファレンス(調べもの支援サービス)など市民が利用しやすい環境整備が必要であること、また令和8年取り壊し予定の旧市立図書館(星崎記念館)には多くの図書や地域史料が残されていることから、地域史料の保存と散逸防止のためには収蔵施設の整備が必要であることを指摘された。
地域史料の利用活用について参加者でフリートーキングした後、利用者の声を図書館経営に反映させるためにも、小田原市図書館協議会委員への応募をすすめられた。
なお小田原市は郷土文化館や松永記念館などの収蔵品を画像データとして保存する「デジタルミュージアム」を令和4年度末までに開設する予定。

報告者 星野和子

十字町界隈に居住した著名人 

2022年 5月 13日

小田原は気候が温暖ということで、明治の後期から著名人が別宅や自宅を構えるようになりました。伊藤博文、森有礼、益田孝、松永安左衛門、嘉納治五郎、北原白秋等々、誰でも知っている人たちが小田原にやって来た時代がありました。とりわけ旧十字町(現在の南町)界隈には多くの方々が住みました。
5月のOOCは、「十字町界隈に居住した著名人」と題して、「十字町ヒストリア」(諸白小路角)を主催する金子不二夫さんに語っていただきました。
金子さんは政治家ばかりでなく三井物産、満鉄関係の人々を似顔絵付きで解説し始め、文学者・音楽家・思想家にまで及びました。また、その人たちの住居地を拡大した地図に番号で示し、長年の調査の結果を披露してくださいました。
金子さんの「十字町ヒストリア」は、国道1号線の諸白小路角にあります。

報告者 金子不二夫

『官道と関本宿』~小田原攻めで徳川軍の一陣が関本に泊まった?~

2022年 4月 8日

 古代、行政区である東海道の官道は、南足柄市西部の静岡県に隣接する“足柄峠を越える道”でした。市の中心部である関本は坂本と呼ばれ、律令制による建物である「駅・駅家(うまや)」が設けられていました。そこには22疋の駅馬(はゆま)の厩舎のほか、役人宿泊のための建物群があり、交通の要衝として大いに繁栄したものと思われます。
 坂本が今の関本と呼ばれるようになったのは、鎌倉時代に入ってからで、中世の関本宿の賑わいは、『海道記』(1223年・著者不明)などによって知ることができます。
近世、江戸期に入ると、家康の「宿駅伝馬制度」によって官道ルートは“箱根峠を越える道”が主となりますが、それでも関本宿には「問屋場」があり、矢倉沢往還や甲州道の中継地点として重要な役割を担いました。また、江戸庶民の「講」が盛んとなったことにより、講仲間の宿泊地としての賑わいがありました。
 近年、関本宿関連で新しい発見がありました。天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めの時、 家康陣の中で“足柄城、新荘城を陥れた陣”のいずれかの者が関本宿に泊まり、そのお礼にともらった「徳川の家紋入りの“壺”」を家宝にしている!という人が現れたのです。

報告者 〔関本宿を語る会〕加藤 孝

下堀方形居館と志村一族

2022年 3月11日

下堀方形居館跡は小田原市下堀にある堀で囲まれた東西103m南北130mの中世方形居館跡である。堀に沿って高さ約3mの土塁の一部が残っている。郭内には志村姓を主とする同族8軒が現存する。堀の外側にも分家が8軒ある。志村一族は武田家滅亡前に下堀に移り住み、北條家より東西約1km、南北約500mの広い地域を与えられ、四百年を超える期間かなり厚遇されていたことが想定される。守護神八幡神社を屋敷内にお祀りしている。なお、現在の中里下堀八幡神社は明治末の神社統合令により中里天津神社と下堀八幡神社を統合したもの。郭外に菩提寺金剛峯寺があったが江戸時代に酒匂川の洪水で流された。郭内の居宅は土塁に守られ水害を免れた。墓地跡には古い石塔墓と五輪塔墓があり、現在も供養している。今の菩提寺満福寺に寄託の大日如来像、寄贈の槍、本家に古仏3体、手鏡、花瓶、家系図、永禄4年の川中島の合戦の働きで奈胡庄を宛行う原隼人正昌胤から志村七郎兵衛宛の感状などの文物を伝承している。

報告者 志村 学

私のルーツ②中世篇  尼子氏滅亡と私の先祖

2022年 2月14日

 私の先祖は、備中足立氏の足立備中守信則である。足立信則は尼子経久の代に尼子氏の旗下に入り、大内、毛利との戦いを尼子側として戦っている。信則から二代後には尼子氏滅亡によって、武士から百姓となり、足立氏は代々竹内村の庄屋を務めている。
 弓浜半島や境海峡は尼子の月山富田城への東側の物資補給路に当たるため、永禄6年~9年には尼子と毛利の激しい戦闘地域となった。その戦闘にまつわる遺跡や言い伝えが遺されている。それらを紹介するとともに、先祖が深く関わった尼子氏の戦いや、戦国大名としての尼子氏の位置づけについても述べた。
 なお、備中足立氏の祖は、おそらく、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の一人である足立遠元と思われるが、未だ調べはついていない。

報告者 荒河 純

私のルーツ①古代篇 弓浜半島の形成と鬼退治伝説

2021年12月10日

 私の生まれた弓浜半島は幅が4Km、長さが17Kmのわが国最大級の砂州であり山も川も元々存在しない。この砂州がどうして出来上がったのであろうか? これは、日野川で古くから行われていた砂鉄採取のための「鉄穴流し」によって形成された。日野川流域で採れる砂鉄から良質の玉鋼が作られるが、この砂鉄を採取するために大量の土砂が流出したためである。
日野川流域の「鉄穴流し」等の製鉄遺構付近及びその関連地には数多くの楽々福神社が建てられ、製鉄の神様として崇信されていた。これらの楽々福神社の祭神は、第七代・孝霊天皇及びその子である。
 孝霊天皇在位の少し前に「倭国大乱」があり、朝鮮半島から多くの漂流民が倭国を目指した。これと一緒に朝鮮半島で行われていた製鉄の技術も伝わり、砂鉄資源のあった伯耆出雲地方で製鉄が始まったと考えられる。
 孝霊天皇には鬼退治伝説があるが、これは上記の漂流民がもたらした「乱」を抑えると同時に、当時始まっていた製鉄技術を奪取するために孝霊天皇が伯耆に遠征し、大和王国統一の礎を築いたプロセスと推測される。

報告者 荒河 純

鎌倉幕府成立に多大な貢献をした中村一族の謎

2021年11月12日

 中村一族の出自は桓武平氏良文流で平忠頼の子忠尊に始まり、横浜の笠間押領使である父常宗が中村郷に1100年頃入り、宗平の誕生は1104年頃でと推測しました。
 中村郷へ来たのは、周辺に有力な豪族がなく、交通の要で発展すると見込んだ為ではないでしょうか。
 義朝の家人である中村一族は保元・平治の乱に不参加です。それは、五所八幡神社や安寿寺の建立、周辺豪族との養子縁組や姻戚関係の確立等が原因と判断しました。平治の乱で義朝の後ろ盾を失った宗平は安寿寺別当の比叡山僧義圓を介し、比叡山を後ろ盾にする為に庄司になったと推測しました。
 宗平の居館は当初中村郷土着の豪族館で殿ノ窪でしたが、庄司となり、勢力拡大後は荘司屋敷に居を構えたと推測しました。

報告者 関谷 満

和田屋敷と大友能直をめぐる人々

2021年10月 8日

・小田原市東大友にある和田屋敷跡と言われているのは、鎌倉幕府侍所初代別当の和田義盛の屋敷跡ではなく、当時の大友郷を支配していた大友氏の屋敷跡である。
・波多野氏と源氏―源頼義 義朝 朝長 頼朝等との関係
・大友能直の実父―近藤(古庄)能成と養父―中原(藤原)親能
・大江広元 三善康信等京下りの吏僚達
・大友左近将監能直と和田左衛門尉義盛

報告者 小林 勲

ご先祖様探検隊 番外編 相模国一向宗事情

2021年 9月10日

 加賀一向一揆と北条氏関東支配はほぼ同時期・ほぼ百年です。一向宗の小田原に及ぼした影響について多くの資料は「北条氏は一向宗を禁教としていた」と書かれており、この「定説」を納得しておりました。ところが鳥居和郎さん(小田原市文化財保護委員)の論考『後北条氏領国下における一向宗の「禁教」について』を読み、目から鱗の思いをしましたので、ご紹介します。
1「一向宗禁教」の根拠は「1506年から禁教した」と書かれた1566年の「後北条掟書」である。
2 しかしその期間に北条氏に一向宗の家臣がいたり、本願寺と領内の真宗寺院の交流もあった。
3 1532年に一向宗真楽寺(国府津)の真乗追放他の事実はあるが、享禄・天文の乱が主原因と考えられる。
4 実態として、北条氏は景虎関東侵攻に対し加賀・越中の一向宗徒を侵入させ上杉氏を衝くことを本願寺に依頼し、その見返りとして北条領国において一向宗「禁教」を解くとしたのであり、本願寺との交渉を有利にするため六十年前より「禁教」していたと主張していたため「一向宗禁教」が定説になった。
「定説」を鵜呑みにしがちな私達ですが、出来る限り事実を追求することの大切さをこの論稿により学びました。

報告者 松島 俊樹

ご先祖様探検隊 番外編 浄土真宗あれこれ

2021年 8月13日

 浄土真宗のあまり知られていないあれこれについておしゃべりをしました。
・小田原・足柄の浄土真宗寺院
・五箇山十日講衆連判状
・薩摩のかくれ念仏
・北陸の信徒、北関東・相馬へ

報告者 松島 俊樹

曽我兄弟と虎の歩いた道

2021年 7月 9日

 曽我から大磯までの丘陵などを通る鎌倉古道は曽我兄弟と兄の十郎の恋人の虎が歩いた道といわれています。この鎌倉古道を歩いて巡った場所と遺跡が地図と写真で紹介された。
① 曽我の里(神保家阿弥陀堂の祐信・満江御前の木像、兄弟が遊んだといわれる木刀)
② 六本松~中村郷(明澤の兄弟顔洗い井戸) 

③ 中村郷(古中村湖、湯場と貝塚)
➃ 川勾神社~吾妻山(川勾神社の五郎と十郎の力石、嘶き窪の馬蹄石)
⑤ 吾妻山~馬転ばし(知足寺の駒止めの跡、五郎の乗鞍、兄弟の供養墓)
⑥ 秦野道~石神台(こうづけ・しもつけ、秋葉神社) 
⑦ 石神台~化粧坂(五郎の力石、化粧の井戸)

​報告者 諸星

旧小田原城主大森一族とその末裔たち

2021年 6月11日

 北条早雲に小田原城を追われた駿河大森氏の子孫は
氏頼―実頼の系統の①江戸幕府旗本になった江戸大森家、②水戸徳川家に仕えた水戸大森家、③甲斐国で土着した甲州大森家、④氏頼―藤頼系の備中早島に定着した備中大森家がある。
 幕末期の水戸大森家の忠怨(ただのり)は水戸藩天狗党の争乱の時、佐幕派であったので攘夷派に殺害された。備中大森家は江戸時代に大庄屋、明治維新後に戸長、明治30年早島町町長を務めるが、その後郷里を出て神戸に移った。

​報告者 片桐

年代測定技術の進歩が歴史を変える

2021年 5月14日

 近年、PCR法と次世代シーケンシングによるDNA解析技術の著しい発展、および炭素14を用いた加速器質量分析法と暦年較正基準の精度向上によって、文書記録のない先史時代の歴史が見直されている。
1.遺骨に含まれるDNA解析
 例えば、縄文人、弥生人、現在日本人のミトコンドリアDNAハプログループを解析することにより、「縄文人」とは後期旧石器時代から始まる南方の東南アジア・西方の中国大陸・北方の大陸沿海州から渡来してきた人々の1万2千年にわたる混血によって形成された日本独特の集団であり、「弥生人」とは気候変動によって混乱した長江文明の中国大陸から稲作を持ち込んだ3000年前に始まる渡来人集団であって、現代日本人はその「縄文人」と「弥生人」の混血であることがわかってきた。
2. 遺跡の動植物に含まれる炭素14の年代決定
 現在、炭素14の測定値の世界標準較正曲線として、福井県にある水月湖の堆積物「年縞」データおよび日本産樹木10本の「年輪」データが採用され、現在から5万年前までの年代決定精度が大きく向上した。その結果、最古の縄文土器の年代が3500年さかのぼって「縄文時代の始まり」は1万6000年前になり、また稲作最古の板付遺跡の土器付着炭化物の年代が500年さかのぼって「弥生時代の始まり」は3千年前になった。

​報告者 宮原

源頼朝はどこを通って鎌倉に入ったか

2021年 4月 9日

 頼朝は治承4年(1180年)に旗揚げして石橋山の戦いで、大庭景親の率いる平家軍に敗れ、真鶴から舟で安房国に渡った。下総国から江戸川・隅田川を渡り武蔵国に入った。
 通説では隅田からは武蔵の国分寺を通り相模国を南下して鎌倉に入ったといわれている。
 報告者は通説のコースは遠回りになり、大庭景親や俣野などの本拠地近くを通り危険である。また、このコースでは相模に入ってからの鎌倉までの距離が長く鎌倉入りの軍揃えを行なうには不適切。佐奈田与一を供養した證菩提寺が故郷でなく、鎌倉に近い横浜市栄区にあることから、隅田から東京湾沿いを南下し、鎌倉から最も近い武相国境を越えたのではと考え、更級日記などで古道を調べて推定した。
 頼朝は隅田~日比谷入江~大井~丸子の渡し~弘明寺~小坪道~朝比奈を通って鎌倉に入ったと考えられる。

​報告者 鳥越

ペリー艦隊は小田原湾(相模湾)で何をしていたか

2020年12月11日

 ペリー艦隊は1853年7月浦賀に来航、翌54年2月に再度来航し、砲弾も発射することなく平和的交渉により、3月3日に日米和親条約を締結した。
 2回目遠征で先行して那覇を出港した帆船が無風のため駿河湾を迷走したこと、帆船マセドニアン号が三浦半島西岸の長井沖で2月11日座礁した事件はあまり知られていない。離礁するため砲弾や予備の帆柱、飲料水などを海に捨てた話も初めて聞く人がほとんどだった。タイトルの小田原湾とは、ペリー艦隊が相模湾のことを勝手に名付けたことも紹介された。2月12日相模湾に到着した蒸気船3隻のうちミシシッピ号がロープで引いて帆船を救助した。夕方になり航行が危険なため、ペリー艦隊6隻がその場で夜を明かした。翌13日夜明けに画家ハイネは、バラ色に染まった富士山「紅富士」を描き、「BAY OF WODOWARA」と題した石版画で『ペリー艦隊日本遠征記』に掲載されている。
 奥津弘高氏は日本側の異国船発見を伝える古文書(二宮町山西の「川勾神社日記」と伊豆大島町の「御用之留帳」)などと並行し、アメリカ合衆国で調査したペリー艦隊の航海日誌や乗組員の日記などを検証し、史料を撮影した写真を添えて講演で開示した。その中で、座礁現場に漕ぎよせてマセドニアン号の救助を申し出た浦賀奉行所の親切な行為についても、日米双方の記録を調査研究して発表した。まだ調査中とのこと、新たな発見が期待される。

​報告者 奥津 弘高

曽我物語のものがたり2

2020年11月13日
  • 曽我物語はどのような話か。東国のビンボウで一途な若き兄弟の仇討の物語。

  • 曽我物語はどのよにして生まれたか​。同じ語り物の平家物語と対比しながら本が先か、語りが先か、作者について、建礼門院と虎女の比較など物語の成立を考察した。

​報告者 青木

曽我物語のものがたり

2020年10月02日
  • 摺袈裟の版木のものがたり。室町時代初めに五郎太夫が急死した折に冥府の十王から「触れれば三悪道で苦を受けるものも解脱する」いう袈裟をもらい受け、甦った。五郎はこの袈裟を版木にして修善寺に寄進した。北条早雲は修善寺により版木を譲り受けて荏原庄の宝泉寺に寄贈したと伝えられている。

  • 五郎 ごろう ごりょう 御霊への転訛のものがたり。恨みを残して死んだ者の怨霊は霊を鎮めて神としてまつれば御霊となる。(御霊信仰)

  • 曽我兄弟の墓は各地にある。西は伊予国宇和郡、北は山形県米沢にある。

  • 虎御前の墓は更に多くある。南は日向国志布志、北は信州善光寺。

  • 虎女と虎ケ石ついて。

  • 曽我兄弟の子孫の伝承

  • 曽我物語の成立と真字本(まなぼん)、流布品について

​報告者 青木

小田原藩士有浦家について

2020年09月11日
  • 1649年佐賀県唐津で大久保忠職に仕官した松浦党有浦氏は大久保氏と共に1686年に小田原に移動、以来2016年まで続いた家です。

  • 有浦家は700年以上存続しただけでなく中世から近世の膨大な古文書を保管、1989年に中世文書を佐賀県立図書館に、1991年に近世文書を(旧)小田原市立図書館に寄贈した功績は特筆されます。

  • 今日はこの中世文書に基づき蒙古襲来・南北朝争乱・戦国時代・朝鮮出兵・島原の乱などに翻弄されながらも生き抜いてきた有浦家の人々の姿を伝えます。

​報告者 松島

「日本人そもそも、日本語そもそも」

2020年08月14日
  • 加速器質量分析法、遺伝子解析の進歩などにより「日本人の起源・日本語の起源」の記述が様変わりしており、「二重構造モデル」による「日本人の起源と日本語の起源」を紹介する。

​報告者 宮原

曽我兄弟の仇討は単なる親の仇討ではなかった?

2020年07月10日
  • 死傷者が多いいこと、同夜の多気一族の逃亡、その後の 範頼の追放、大庭景義・岡崎義実の出家・追放などの 吾妻鑑の記事は仇討とするには疑問がある。

  • 従来の諸説    北条時政による頼朝暗殺説。相模武士団による頼朝・時政暗殺説などがある。

  • 報告者の推論

  • この事件は北条氏と相模武士団との武力抗争で相模武士団が敗れた。兄弟は相模武士団の一員とし工藤佑経を討つ。

​報告者 諸星

「下曽我の昔」聞き書き ー 古老にお聞きした

2020年02月14日
  • 昔の公道

  • 曽我にあった沼 小海について

  • 古代の小海の水運利用

  • 山崎金五右衛門の排水溝構築による小海新田開発

  • 曽我氏の事

  • 曽我山と千代台地

  • 曽我山にアメリカ軍迎撃の大砲陣地。曽我への学童疎開

​報告者 諸星

板碑の盛衰と中世について

2019年12月12日
  • 仏を表す梵字の種子や仏像等を彫った板状の石の供養塔の板碑(いたび)は中世に造られた。埼玉県の例では1360年代に制作数がピークであった。

  • 地域的に偏り、関東に70%がある。

  • 制作者の名は初期の姓名のある個人名から無性の個人名が多くなり、時代が後になると個人名から集団名が多くなった。

  • 中世はいつ始まったか。土地所有制度から見て、公領が減少し荘園が多くなった院政期の1100年代から始まったと近年は云われるようになった。

​報告者 松島

小田原市の博物館構想を見る

2019年12月12日
  • 博物館基本構想が平成28年度に作成された。

  • 基本的な考え方は小田原の歴史を未来に伝え市民とつくる博物館。すなわち小田原の歴史をたどり、小田原の宝を守り、まちを丸ごと博物館にする。

​報告者 青木

北村透谷と交友のあった紅蓮洞・坂本易徳と同時代の人たち

2019年11月08日
  • 紅蓮洞(ぐれんどう)は雑文家。文壇と演劇の消息通として知られていた。

  • 慶応2年に小田原藩士の子として江戸で生まれ、小田原で少年時代を過ごし、慶応義塾を卒業後、新聞記者、雑誌記者などをしたが、長続きしなかった。文学者と交わり、奇癖の逸話が多く、放浪生活の窮乏のうちに亡くなった。佐藤春夫は『都会の憂鬱』で「ゴトさんは恰も正当な権利のような顔をしてしばしば彼等(学生)から小遣銭を徴収した」と書いている。

  • 旧小田原藩総没落という時代の変革の中で紅蓮洞と同時代の人として、透谷の父北村快蔵、小田原紡績の経営を任された神原富文、アメリカに渡った相澤親之介などいる。

​報告者 青木

土肥実平の末裔たち

2019年10月11日
  • 遠平の嫡男の惟平は和田義盛の乱で義盛に味方して処刑されて惟平が相続した早川荘は没収されたが、遠平はこの乱には無関係で土肥郷と安芸国怒田荘の没収を免れ、実綱の時勢力を回復した。

  • 頼平が越中土肥氏となり、戦国時代に国人として活躍した。

  • 遠平の養子の景平系小早川氏は安芸国沼田荘を相続した。戦国時代の小早川隆景、秀秋に続く。

​報告者 青木

里修験について

2019年10月11日
  • 里修験とは徳川幕府の宗教政策で、山岳修験が里に下り定住した修験。

  • 明治元年の神仏分離令と明治5年の修験道廃止令によって修験寺院の多くが廃寺となった。

  • 小田原には修験の寺院は満福寺、妙力寺、大光院、大乗院、量覚院の5ケ所がある。 

​報告者 諸星

いろいろな史観

2019年09月13日
  • 皇国史観、唯物史観、梅棹忠雄の生態史観論と川勝平太の海洋史観論および松浦茂樹の国土経営史観論を紹介。

​報告者 佐久間

小田原の板碑

2019年09月13日
  • 鎌倉・室町時代の墓、供養塔である下記の石の板碑を紹介。

  • 居神神社、宝金剛寺、小田原城、量覚院(秋葉山)、山北などの板碑。

​報告者 青木

「仮説”をたわら宿”から”小田原宿”へ」について

2019年08月09
  • 「小由留木」→「小田原」説に疑問を持ち、事例→結果→仮説のサイクルの「推論の素過程」の方法で仮説を創出(アブダクション)する。仮説を創出することも歴史の楽しみ方の一つである。

​報告者 宮原

酒匂・鈴木家のルーツ・歴史

2019年07月12日
  • 源義経の家来で義経と共に戦死した鈴木三郎家重の子が家を継だ。

  • 鈴木大学頭成脩は弓の名手で小田原北条氏に仕え、天正の小田原合戦で渋取り口で戦死。

  • 鈴木家は度器制作の幕府御用を務めた。

  • 明治8年度量衡取締条例が公布され、免許鑑札を受け制作販売し、小田原物差として繁昌した。

​報告者 鈴木

中井町半分形の大日如来像の由来

2019年07月12日
  • 半分形では最初の大日如来像が盗まれて、再び作ったと伝えられていた。平成になり古文書が発見され、最初のお像は山形県にあることが分かった。

  • 曽我兄弟の仇の工藤佑経の子がお像をもって落ち延びたと云われている。

​報告者 松島

小田原周辺の古代~中世の鉄に関する遺跡

2019年06月10日
  • 「南足柄市タタラド製鉄遺跡」と「早川の製鉄遺跡」を紹介。

​報告者 宮原

小田原北条氏2代氏綱の正室養珠院の出自

2019年06月10日
  • 鎌倉北条高時の子・時行の孫・時任が尾張国横江に土着し、子孫が横井を名乗った。養珠院は伊豆に移住した横井氏の出身ではないかと推考した。

​報告者 山口(正)

鳥越家のルーツを紹介

2019年06月10日
​報告者 鳥越

里修験って何だ?

2019年05月10日
  • 近世以降、村に住み祈祷などを行った修験者について紹介

​報告者 青木

修験とは?  行き当たりばったりつまみ食い

2019年05月10日
  • 能・狂言に描かれた修験者、山北のお峰入りの民俗、行事、日向薬師、後北条氏の修験役などをおしゃべり

​報告者 松島

御師の家 伊勢の山田大路家のこと

2019年04月12日
  • 伊勢神宮の御師の大路家について紹介

​報告者 田中(青木)

大久保さん、400年の歩み 北条、北条と言うけれど

2019年03月08日
  • 大久保氏が小田原に再入府以来小田原城天守閣に天守七尊が祀られていたが、明治維新の後の廃城後、永久寺に祀られた。

  • 現在、再建天守閣にはそのうちの一つ摩利支天が祀られている。

​報告者 松島

安叟宗楞の生年と没年

2019年02月08日
  • 小田原市史などに記された安叟宗楞の生年と没年を『梅花無尽蔵』、『続日本洞上諸祖伝』、『日本洞上聯燈録』などの文献で検証を試みた。

​報告者 青木

中本寺

2019年02月08日
  • 大雄山最乗寺は関東甲信越奥州に教線広げ、関東に100寺、甲信越奥州に64寺合計164寺があった中本寺を紹介

​報告者 佐久間

 小田原史談会では平成28年9月より「大森氏おしゃべり倶楽部(OOC)」として大森氏をおしゃべりして来まして、平成30年5月の展示会で終了しました。引き続き、活動名を「小田原おしゃべり倶楽部(OOC)」とリニューアルして、参加メンバーの自由研究をおしゃべりしています。

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