令和7年2月12日
小田原〇っと近たび
「三島神社(大井町)から曽我丘陵山麓の薬師仏を訪ねる」
国府津駅で御殿場線に乗り換え、上大井駅で下車した。上大井駅は無人駅で、切符をどこに置いたらよいか一瞬戸惑って駅を出た。駅は昭和のただずまいのレトロな駅舎です。
駅から歩いて行くと途中「箱根山」の酒造蔵「井上酒造店」の前を通り三島神社に着いた。宮司の御母堂様の説明で本殿右手の薬師堂に安置された薬師如来坐像(県重要指定文化財)を拝観し、本殿で参拝。三島神社には算額が奉納されており、明治15年に安藤為吉という人が作成したもので、縦72cm、横139.5cmの長方形の額に5つの図形が描かれている。町重要文化財指定に指定されている。実物は見ることができなかったが、レプリカを拝観した。
上大井駅から下曽我駅に電車で移動。下曽我駅から尾崎一雄の石碑や屋敷跡、墓地などを見学して、宗我神社に参拝し、筆子塚や社殿裏にある曽我兄弟の御霊社などの石造物を見学した。次の法輪寺に行く途中の紅梅は満開で、白梅も咲き始めており、風情あった。法輪寺ではご住職の寺宝の澄禅上人の二十五条袈裟と位牌、拘留孫仏舎利や寺の縁起のお話を拝聴した。薬師堂の平安時代末の作といわれる薬師如来と日光菩薩・月光菩薩を拝観した。

三島神社

算 額
別所薬師堂の焼け薬師は12日が縁日で地元の保存会の方が四名お堂に詰めておられ、保存会の方の焼け薬師の縁起を拝聴し、焼け薬師を拝観した。拝観後解散となり、三々五々梅林へ観梅に行く人、食事に行く人などに分かれた。
令和7年1月22日
小田原史談会 令和7年初詣
遠江国一宮小國神社と掛川城、高天神城を巡る
頂上近くに雲のかかった富士を眺めて東名から新東名に入り、バスは森町スマートICで降りた。ほどなくして小國神社に到着。社名の「おくに」が意味する「神を祀る神聖な場所」にふさわしく小國神社の境内は広大な杉林に囲まれている。拝殿で初詣の参拝をして社殿を一周し、御神木の「ひょうの木」、「大杉」や幾つかの摂社を参拝して境内を散策した。

掛川城の入り口にある「こだわりっぱ」で茶そば刺身御膳を頂いた。
大日本報徳社は掛川城のすぐ東側にある。二宮尊徳の弟子であった岡田佐平治が設立した「遠江国報徳社」を起源とし、全国の報徳社の総括と報徳思想の復旧活動を行っている。
大日本報徳社を石野専務理事の案内で見学した。敷地内に明治35年建築の大講堂、道徳門・経済門、図書館、有栖川宮邸から移築の木造の仰徳記念館・仰徳学寮、冀北学舎がある。大講堂で石野氏の岡田喜平治・良一郎主導の掛川地方の報徳運動と大日本報徳社についての講演を拝聴した。
今川氏真は武田信玄に駿府の今川館を追われ、朝比奈康朝の掛川城に逃れたが、徳川家康に包囲され、北条氏康の仲介で氏真は開城して小田原へ退去して家康に引き渡した。家康が関東に移封すると、山内一豊が掛川城に入り、大幅に拡張・改築し、天守閣などを造った。江戸時代は譜代大名が城主であった。安政元年(1854)の安政東海地震で城の建物が倒壊し、二の丸御殿は再建されたが、天守閣は再建されなかった。平成6年(1994)に木造復元の三層天守閣が再建された。


天守閣に入館し狭く急な階段を登り最上階まで上がった。そして現存二の丸御殿を見学した。書院造で江戸時代の藩主の公邸・藩の役所・儀式の場を偲ぶことができる。
掛川城から高天神城への沿道は低い丘陵で茶畑が続いている。高天神城は海抜132m、小規模ながら堅固な山城で、戦国時代末期に武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦繰り広げた。
高天神城ガイドの案内で、本丸のすぐ下の搦手口から急な石段の登城道を休み休み登り、尾根上の井戸曲輪を経て本丸に到着した。井戸曲輪を経て急な石段を登り高天神社のある西の丸に至り、風力発電の風車が林立している御前崎・遠州海岸を遠望した。周りが急な崖になっており、堅固な山城を体感した。
バスに戻り帰途に就いた。
令和6年9月26日
小田原史談会史跡巡り
甲州街道・相模国北部と甲斐国東部の宿場を巡る(甲州街道第2弾)
甲州街道の吉野宿(相模原市)、野田尻宿(山梨県上野原市)、奇橋・猿橋、江戸時代の現存本陣のある下花咲宿(大月市)、ぶどう寺大善寺(甲州市勝沼)などの史跡をバスで巡った。
〔吉野宿〕吉野宿は明治29年の大火で全焼し、「吉野宿ふじや」は、かつては旅籠「藤屋」で、明治30年頃に建てられた町屋建築で甲州街道吉野宿の風情を伝えている。郷土資料館となっており、ガイドさんに説明していただいた。1階は旅籠を再現した部屋で、2階は当時の人々が用いていた生活用具、そして養蚕業に関する展示がされている。2階のガラス戸の足下に木々の間に相模湖の湖面が庭の池のように見えた。

道路を挟んで「ふじや」の向かい側に5階建ての本陣跡があった。甲州街道中最大のものだったと言われている。
〔野田尻宿〕萬屋、蔦屋、中田屋、鶴屋などの屋号の家並が宿場町の面影を今も残している町を散策した。

〔猿橋〕は日本3大奇橋の一つと言われている。刎橋という構造で、桂川の深い渓谷に架けられ、橋脚が建てられないため、谷の崖に設けられた石積み橋台に刎木(はねぎ)を差し込み、両岸からの刎木に桁を乗せた構造の橋である。7世紀に百済からの渡来人である志羅呼 (シラコ)が、手足を繋ぎ断崖を渡る猿をヒントに造ったとの伝説が残ることから、猿橋と呼ばれるようになったという。
・昼食は大月駅前の濱野屋で山梨の郷土料理「ほうとう」を食べた。

〔下花咲宿〕の星野家住宅は天保時代に焼失したが、江戸時代末に再建された 本陣で、国の 重要文化財に指定されている。
ご当主の星野さんにご案内していただいた。母屋は2階建て切妻造りで、1階は東側の部屋が居住部分で、西側部分が本陣に当たり、当時の形態がよく保存されている。2階部分は3層になっており、実質4階です。屋根裏2層部分で養蚕をしていた。

〔大善寺(別名ぶどう寺)〕 真言宗智山派。寺伝によると奈良時代の養老2年(718)、行基が甲斐国勝沼の日川渓谷で修行した時に、満願の日に夢中にぶどうを持った薬師如来を感得し、薬師如来像を刻み安置して寺を開いたと伝えられている。(本尊である薬師如来像の様式などから、実際の創建は平安時代前期と考えられている。)

本堂の薬師堂は檜皮葺きで、関東周縁では最古の木造建築で国宝。須弥壇には秘仏の薬師如来像、日光菩薩像、月光菩薩像を納めた厨子(国宝)、十二神将像が安置されている。
境内でぶどうを栽培しており、薬師堂参拝後、庫裏で葡萄酒を試飲した。
令和6年5月29日