令和4年10月13日

武蔵国の高麗神社と川越まち歩き

 新型コロナの流行で休止していた小田原史談会史跡巡りバスツアーを3年ぶりに実施した。コロナ感染を心配してか参加者17名でした。通常なら挨拶やツアーの予定説明の後にまずはお茶のサービスがありますがありません。コロナ感染防止のためバス内は飲食禁止です。なお、バスの換気は新幹線と同じであるとのことです。
 小田原と川越の縁は後北条氏が関東に覇権を立てる契機となった河越夜戦があります。また、川越といえば、蔵の街です。圏央道で事故渋滞があり川越には30分遅れで到着したので、蔵造りの町並みグループと川越城本丸御殿グループに分かれて見学した。
 川越に蔵造りの町並みが形成される契機となったのは、明治26年の大火です。同じ惨事を繰り返さないよう、蔵造り建物が造られた。重厚でレトロな町並みはタイムスリップしたようです。

202210shiseki1.jpg
202210shiseki2.jpg
202210shiseki3.jpg

 川越城は太田道真(道灌の父)または道灌により築城されたと云われる。また、北条氏康は河越夜戦で古河公方、山内・扇谷上杉連合軍を破った。現在の本丸御殿は弘化3年(1848)に二之丸の御殿が火事で焼け、空き地になっていた本丸に再建された。本丸御殿の巨大な唐破風屋根はこれぞ御殿の玄関と云う造りです。
 日高市にある高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)を祀っている高麗神社を参拝。高麗王若光は唐・新羅連合軍に滅ぼされた高句麗の王族と云われる。高麗神社は東海道の7国の高麗人を武蔵国に遷し設けられた高麗郡にある。宮司は代々その子孫の高麗家で現在は60代目である。神社裏手にある高麗家住宅を見学。また、別当寺であった高麗山聖天院勝楽寺の高麗王若光の墓に参詣した。

202210shiseki5.jpg
202210shiseki4.jpg

田中 豊

令和2年1月21日

「東国三社をめぐる初詣」

 令和年代、初の小田原史談会初詣は、お伊勢参りと並び古来より名高い東国の三社参りとなった。高く広がった青空に恵まれた朝。集合時間よりはるか早くから集まり出した参加の人たち、互いに新春の挨拶が飛び交っていた。私事ではあるが、昨年初夏の思わぬ入院騒ぎで自分の体力復活の試金石の旅でもあった。おなじみの人達との挨拶も交わすことが出来た。
 十時五十分鹿島神宮に到着、入り口鳥居前には神宮の案内を依頼した私設博物館の石川館長が待機されていた。「昔、鹿島神宮はすぐそばまで香島の海が迫り、遠望された第一の鳥居から御手洗池まで舟で御手洗川を遡ることが出来、そこに上陸禊をして参詣しという。

 神域は約二十一万坪の広大な広さ、昔はその何倍もあった」とか。境内は奈良と同じく三笠山と呼ばれ、杉・椎をはじめ巨樹古木が聳え立つ。鳥居の先には徳川三家の水戸初代藩主徳川頼房(家康の第十一子〈除:女子〉、水戸黄門こと光圀公は二代目)建立の鮮やかな朱塗り楼門のすぐ右には拝殿・本殿が鎮座し、伊勢神宮と同じく二十年毎に造営されていたが、現在の社殿は元和五年(一六一九)徳川二代将軍秀忠により奉納されたものという。左右古樹に覆われた参道はきめの細かいしっとりとした土壌に覆われ、玉砂利などになれた私には柔らく程よい感触を感じた。

 祭神は日本建国・武の神「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」、神代の御代にさかのぼり神武天皇御の御代、東征の半ば窮地に陥られたが、武甕槌大神の霊剣の神威により救われたという。この神恩に感謝された神武天皇は即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられている。その後、東国遠征の拠点として重要な祭詞が行われ、奈良・平安の頃には国の守護神として篤く信仰され、奉幣使が頻繁に派遣された。中世~近世になると源頼朝、徳川家康などの武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになったという。現在の社殿は徳川二代将軍秀忠、奥宮は家康が建て、楼門と共に重要文化財に指定されている。

kashima1_edited.jpg
kashima2_edited.jpg
IMG_20200229_0003_edited.jpg
ikisu1_edited.jpg
ikisu2_edited.jpg
IMG_20200229_0001_edited.jpg
katori1_edited.jpg
katori2_edited.jpg
IMG_20200229_0004_edited.jpg

頼朝をめぐる人々と史跡を歩こう

第4回 三浦一族を訪ねて

令和4年10月18日

今回は鎌倉幕府の開府に貢献した「三浦一族を訪ねて」三浦半島に向かった。最初は134号線で横須賀に入ってすぐの浄楽寺。和田義盛夫婦が願主となって運慶が造像した本尊阿弥陀三尊を副住職の解説で堪能した。次に三浦一族の主城で畠山重忠等武蔵の武士に攻められ落城した衣笠城へ。一族の最長老三浦義明が籠城して討ち死した。その間に三浦一族が房総へと逃れた地である。城から少し下り義明の像のある満昌寺、三浦三代為通・為継・義継の墓のある清雲寺、三浦義澄の墓のある薬王寺旧跡などの三浦一族の本拠地を徒歩で巡った。さらに下り三浦義明の子佐原義連の開基の満願寺へ。これらの寺々にも運慶に関連する仏像のあることを知り、運慶と鎌倉との関係を再認識した。
その後三浦半島を南下して金田港近くの福寿寺の三浦義村墓に詣で、半島丘陵部に戻り和田義盛の本貫地和田の里を巡り帰路に就いた。

第3回 波多野氏と城館

令和4年8月25日

 蓑毛大日堂は秦野市東地区にある大山の山岳宗教の一大拠点であった。平安後期の遺風を残す仁王像の立つ仁王門を潜り、大日堂の重い扉を開けると古色蒼然とした堂内は大日如来を中心に五智如来が仄暗い照明の中から静かに浮かび上がってきた。この堂宇の中は中古の時間がそのままに止まっているようである。背後の不動堂に通ずる石段を登り、茶湯殿に入ると閻魔大王以下の十王像が厳めしい姿で待ち構えていた。三途の川に待つ奪衣婆、鬼、俱生神が所狭しと立ち並び、唯一の救いが中心に立つ2㍍を超える地蔵菩薩で、冥界の恐怖と慈悲の世界がよく伝わってくるお堂である。ここまでは諸堂を管理する寶蓮寺の東島住職(尼さん)に丁寧な解説をして頂いた。
 次に東田原にある金剛寺で源実朝の木像を拝観。道を隔てたふるさと公園にある源実朝御首塚(みしるしづか)に詣でて、実朝暗殺から当地に埋葬されるまでの経緯を聞く。波多野城址に移動して、城址の碑のある所より東側の小高い台地あたりが、城館の名残りを示す地名から実際は波多野氏の館があったと推測される。同行し説明して頂いた武勝美さんとまほらの会の皆様には大変お世話になりました。

第2回 大庭御厨

令和4年6月21日

大庭御厨は鎌倉景正によって開発され伊勢神宮に寄進された今の藤沢市・茅ヶ崎市にまたがる広大な荘園です。子孫の大庭氏が下司職であった。大庭景親は石橋山の合戦で相模・武蔵の三千騎を引き連れて頼朝を敗走させた。その後斬首された。頼朝に従っていた大庭景義が御厨領を継承した。
最初に景親の館のあった大庭郷の豊穣であったと思われる田園地帯を1時間ばかりを掛けて散策。田植えが終わったばかりの水田、景親の屋敷跡と言われる大庭神社や宗賢院で当時の御厨に思いをはせ、さらに室町時代に太田道灌により築城されたと言われる大庭城趾をみた。その後東に、国司側についた源義朝の御厨乱入事件のあった鵠沼郷に。大庭御厨総鎮守の皇大神宮を参拝。今度は西に向かい茅ヶ崎市の懐島郷の義景館跡に。残念ながら屋敷跡と言われる社の周りは全くの住宅街で昔の面影は無かった。少し西の鶴嶺八幡宮へ。国道一号線脇の大鳥居から社殿に続く八丁参道は松並木で雰囲気があった。1063年源頼義によって創建されたもので、源氏が関東進出の際に創建した最初の氏社と言われている。最後に国道一号線脇の「旧相模川橋脚」を見学、関東大震災の時に田んぼの中から出現した旧相模川橋の橋脚だ。頼朝がこの橋の落成式の帰りに落馬して死亡した説を偲び小さな旅を終えた。

​第1回 頼朝と曽我兄弟が歩いた道

令和4年 4月19日

 今回から「鎌倉殿をめぐる人々と史跡」という新しいシリーズが始まりました。
第一回は「頼朝と曽我兄弟が歩いた道」というテーマで鎌倉古道を歩きました。
下曽我駅を出発し、二宮駅までの約8キロのコースです。
多くの人が往来した六本松の峠を過ぎ、頼朝に因む将軍山、鎌倉山、大迎えの丘を下りました。当時あった中村湖の周辺の山道を歩き、川勾神社から再び山道を登って、古人も一息ついだ嘶き窪(いなくぼ)では馬も足を掛けた馬蹄石を見て、吾妻山西麓まで至りました。
時間の関係で次の知足寺等の見学場所は省略し、二宮駅で解散。天気に恵まれ、道すがら農家の人々と会話を交えながらの楽しい史跡探訪の散策となりました。

曽我物語を追っかけよう

PHTO0012_edited.jpg
 
 
 

​第10回

令和4年 2月16日

高麗山の下の平塚市山下の虎女の史跡を巡る。白藤稲荷社の「虎女の文塚」(虎女が亡き曽我十郎の追慕を断ち切るため、十郎からの文をここで焼いた)―「虎住庵の跡」(虎女が尼となって閑居した)—「山下長者屋敷跡」(虎女の養父の屋敷跡といわれる。鎌倉時代の形式の館跡)-湘南平(泡垂山)の「曽我十郎の硯水」(十郎が虎女に送る文を書くのに五郎が踏んで出来たここの池の水を使ったと伝えられる)展望台からの房総、箱根富士、新宿・横浜の超高層ビル群も見え景色が素晴らしかった。
中井町遠藤の「鬼王・段三郎の墓」(曽我兄弟の従者。関谷氏の説明あり。)―小田原市東大友の小田原球場近くの「大友能直(和田義盛)屋敷跡」(曽我郷のとなりで曽我兄弟の同時代。小林氏のお話があった。)

​第 9回 鎌倉歴史散歩

令和3年12月 7日

12月7日初冬の鎌倉歴史散策をしました。 鎌倉駅西口から「今大路」を経て寿福寺、「窟小路・横大路」を経て鶴岡八幡宮、さらに東へ初期の鎌倉幕府のあった雪の下周辺や永福寺跡、鎌倉最古の寺の杉本寺、「六浦道」の南側滑川沿いの「田楽辻子のみち」を通って宝戒寺・東勝寺跡、更に小町大路を南下して妙本寺へ約2万歩の散策でした。寿福寺や滑川沿いや妙本寺など各所の紅葉も見頃で美しかった。NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で来年は大混雑が予想される鎌倉ですが、今回は静かな鎌倉でした。

​第 8回 番外 松田氏・河村氏の史跡巡り

令和3年10月19日

遠藤先生(松田町文化財保護委員)の案内で松田氏・河村氏の遺跡を巡る。
山北町湯本平 満蔵寺 ―湯触 松田康隆が修造の三宮寺跡
―河村城址:河村氏が籠城して足利軍と戦う。後北条氏が城を拡張。発掘復元の障子堀。
 松田康隆が河村郷を所領した。 ―湯坂 河村城南麓の河村氏居館跡
―室生神社:鏑流馬神事は鎌倉での河村義秀の鏑流馬の妙技に由来するとの伝承がある。
―般若院(河村氏菩提寺)
―松田町庶子 大蔵院:松田城跡の麓に所在。松田氏のものと思われる五輪塔と宝篋印塔群。
―寒田神社:足柄上下郡唯一の式内社。旧神主家の名乗りは松田氏。

​第 7回

令和3年 7月14日

伊豆の国市韮山・北條の里  曽我兄弟にゆかりのある北條氏、源頼朝などの史跡を巡る。
 仁田忠常の墓(兄の曽我祐成を討取った武士) ~ 円成寺跡(北條氏邸跡)
~ 成福寺(北條氏一族の墓所) ~ 伝堀越御所跡(堀越公方足利政知の御所跡)
~ 北條政子産湯の井戸 ~ 願成就院(北條時政の創建 国宝運慶作諸仏 北條時政の供養墓)
~ 眞珠院(伊東祐親の娘で頼朝最初の恋人・八重姫の供養堂) ~ 蛭ヶ小島(頼朝配流の地)

​第 6回

令和3年 5月18日

相模の中世の武士たちの跡を訪ねる。 相模川右岸地域の岡崎氏・中村氏
 伊勢原市無量寺(岡崎城跡・岡崎義実) ― 平塚市天徳寺(真田城跡・真田与一)

 ― 平塚市大乗院(土屋城跡・土屋宗遠) 案内:郷土史家 関野勝久氏、杉山昇氏、蓑島幾造氏

   ― 中井町中村庄司宗平館跡 案内:郷土史家 関谷 満氏

   ― 二宮町知足寺(二宮友平・朝忠館跡)
・二宮朝忠の妻・花月尼は満江御前と最初の夫源仲成との間に生まれた曽我兄弟の同腹の姉。知足寺は花月尼が創った仏堂の跡に創られたといわれる。

​第 5回

令和3年 3月30日

兄十郎祐成の恋人・虎御前の伝承が残る大磯を歩く
 鴫立庵(日本三大俳諧道場の一つ 案内:大磯町学芸員 北水慶一氏) ― 慶覚院 ― 善福寺 ― 虎御前の化粧井戸 ― 延台寺
 ・善福寺は伊東祐清の子で曽我兄弟の従弟の平塚入道了源が創建。
 ・延台寺は虎御前の草庵法虎庵跡に創られたとの伝承がある。「虎御石」や虎御前木像などが祀られている。

​第 4回

令和2年11月17日

富士宮市富士の巻狩リコース 案内 :富士富市郷土資料館館長 渡井一信氏

​  狩宿の下馬桜、井出家・高麗門・長屋、曽我八幡宮、曽我兄弟霊地、

  音止めの滝===曽我兄弟の隠れ岩===工藤祐経の墓

​第 3回

令和2年10月 6日

河津八幡神社、血塚・椎の木、音無神社、最誓寺、東林寺、伊東祐親の墓

​第 2回

令和2年 9月 1日

箱根神社と兄弟のつながり 案内 :箱根神社爾宣 柘植英満氏

​  箱根神社、湯本 正眼寺、湯河原 城願寺

​第 1回

令和2年 8月 4日

十郎・五郎が育つた曽我地区を巡る

​  瑞雲寺、小沢大明神、満江御前墓、曽我祐信屋敷跡、他