令和6年9月26日
小田原史談会史跡巡り
甲州街道・相模国北部と甲斐国東部の宿場を巡る(甲州街道第2弾)
甲州街道の吉野宿(相模原市)、野田尻宿(山梨県上野原市)、奇橋・猿橋、江戸時代の現存本陣のある下花咲宿(大月市)、ぶどう寺大善寺(甲州市勝沼)などの史跡をバスで巡った。
〔吉野宿〕吉野宿は明治29年の大火で全焼し、「吉野宿ふじや」は、かつては旅籠「藤屋」で、明治30年頃に建てられた町屋建築で甲州街道吉野宿の風情を伝えている。郷土資料館となっており、ガイドさんに説明していただいた。1階は旅籠を再現した部屋で、2階は当時の人々が用いていた生活用具、そして養蚕業に関する展示がされている。2階のガラス戸の足下に木々の間に相模湖の湖面が庭の池のように見えた。
道路を挟んで「ふじや」の向かい側に5階建ての本陣跡があった。甲州街道中最大のものだったと言われている。
〔野田尻宿〕萬屋、蔦屋、中田屋、鶴屋などの屋号の家並が宿場町の面影を今も残している町を散策した。
〔猿橋〕は日本3大奇橋の一つと言われている。刎橋という構造で、桂川の深い渓谷に架けられ、橋脚が建てられないため、谷の崖に設けられた石積み橋台に刎木(はねぎ)を差し込み、両岸からの刎木に桁を乗せた構造の橋である。7世紀に百済からの渡来人である志羅呼 (シラコ)が、手足を繋ぎ断崖を渡る猿をヒントに造ったとの伝説が残ることから、猿橋と呼ばれるようになったという。
・昼食は大月駅前の濱野屋で山梨の郷土料理「ほうとう」を食べた。
〔下花咲宿〕の星野家住宅は天保時代に焼失したが、江戸時代末に再建された 本陣で、国の重要文化財に指定されている。
ご当主の星野さんにご案内していただいた。母屋は2階建て切妻造りで、1階は東側の部屋が居住部分で、西側部分が本陣に当たり、当時の形態がよく保存されている。2階部分は3層になっており、実質4階です。屋根裏2層部分で養蚕をしていた。
〔大善寺(別名ぶどう寺)〕 真言宗智山派。寺伝によると奈良時代の養老2年(718)、行基が甲斐国勝沼の日川渓谷で修行した時に、満願の日に夢中にぶどうを持った薬師如来を感得し、薬師如来像を刻み安置して寺を開いたと伝えられている。(本尊である薬師如来像の様式などから、実際の創建は平安時代前期と考えられている。)
本堂の薬師堂は檜皮葺きで、関東周縁では最古の木造建築で国宝。須弥壇には秘仏の薬師如来像、日光菩薩像、月光菩薩像を納めた厨子(国宝)、十二神将像が安置されている。
境内でぶどうを栽培しており、薬師堂参拝後、庫裏で葡萄酒を試飲した。
令和6年5月29日
「小田原〇っと近たび」
「かんなみ仏の里を堪能しよう」
グル
前日の嵐から一転し、初夏の風に吹かれて函南駅を総勢18名で「仏の里」桑原地区をめぐるハイキングに出発しました。途中倒木で行く手を遮られるというハプニングに遭うも何のその、枝木を払い除け前進あるのみ。さすがの皆さん方です。
古は小筥根と呼ばれ箱根権現の神領であった、ここ桑原は万巻上人が愛した地とも云われ、平安時代にその弟子たちが万巻上人の菩提寺として建立した新光寺に、現在は美術館に展示されている24体の仏様たちは安置されていたそうです。新光寺が廃寺後、里人達によって明治33年薬師堂(写真)が建立され仏様たちは大切に守られてきたそうです。現在、24体の仏様たちの姿形は美術館に遷座されましたが、御魂はこの御堂に留まり人々をお守りしてくださっているようです。
ありがたくも御堂内にて昼食の時間を過ごすことが出来ました。午後は美術館でいよいよ仏様たちとのご対面です。帰路は全員でひと山越え、熱海方面へ向かう日金街道への分岐にある七観音を参拝して、無事函南駅まで帰着しました。皆様お疲れさまでした。
令和5年10月31日
甲州街道の武蔵国西部と相模国の宿場を巡る
甲州街道の江戸時代の現存本陣のある日野宿、小原宿(相模原市)と府中宿などの史跡をバスで巡った。
〔府中宿〕大国魂神社の駐車場でバスを降りて徒歩で中心街にある神社の周辺の史跡を巡った。府中の街は大国魂神社を基軸に造られ、奈良時代に国府が置かれ、江戸時代には甲州街道の主要宿場町としてにぎわった。
武蔵国府館跡は発掘あとに柱を立て建物柱跡を表示し、国府館を模型で分かりやすく展示している。また、ここは府中御殿跡で、奥州平定に赴いた豊臣秀吉の宿舎として徳川家康が造営した。
府中市役所前交差点の高札場は江戸時代の姿を今に伝えている。また、ここは大国魂神社御旅処である。この向かいに本陣跡がある。
馬場大門欅並木は大国魂神社参道で520mある。源義家が前九年役の戦勝祈願成就御礼として苗千本を神社に奉納したのがはじまりといわれ、並木沿いに家康が寄進した馬場あった。
武蔵国国衙跡は大国魂神社を挟んで国府館の反対側にある。
大国魂神社は大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)(素戔嗚尊の御子神で出雲の大国主命と同一の神)を武蔵国の御祭神として祀ったのが初めとされる。国府が置かれ武蔵国の有力な六つの神を合祀して六所宮と呼ばれ、武蔵の総社である。
〔谷保(やぼ)天満宮〕(国立市) 谷保に配流されていた菅原道真の子の道武が父の姿を彫って祀った東日本最古の天満宮。
〔日野宿〕 現存本陣は元治元年(1864)脇本陣の下佐藤家を再建した瓦屋根の本陣で往時の様子を偲ぶことができる。
〔小原宿〕(相模原市) 小仏峠を越え、道の駅「小原の郷」でバスを降りて出し桁造り家がある古い家並みのある往時の宿場町の雰囲気のある小原宿を散策し、江戸時代の現存本陣を見学した。
令和5年9月28日
「小田原〇っと近たび」
「関東大震災に学ぶ科学と知恵」
グル
午前の部は、「関東大震災に学ぶ科学と知恵」をテーマに温泉地学研究所の主任研究員・理学博士の本多亮先生に講演をして頂いた。
また観測室の見学では地震計などの説明もして頂いた。今年は関東大震災から100年という節目でもあり、本多先生はいくつもの依頼を受け各所で講演されてきたが、他所で講演を聴いた方からもこの日の講演は好評であった。
午後のコースは関東大震災で埋まり、その後掘り起されたという箱根湯本天成園の玉簾の瀧までを入生田駅から歩くというものである。途中、東山崎の牛頭天王神社・箱根湯本の熊野(ゆや)神社を巡るというものだったが、ぶり返した猛暑日に迫る暑さで遅れがちになる人も、箱根湯本の駅前で何人かの参加者と別れ、熊野(ゆや)神社をスキップして最終目的地の玉簾の瀧へと急いだ。到着した12名の参加者は、暑さが拍車をかけた疲れも瀧周辺の涼感とマナスイオンに癒され、天成園の若きマネジャーによる和やかな「滝秘話」にも癒されて、日程を終了した。終了後は、思い思いに足湯に浸かる者。スキップした熊野(ゆや)神社へと向かう者など。それぞれに帰途に着いて行った。一人の故障者もなく、無事終了出来たことに感謝である
令和4年10月13日
武蔵国の高麗神社と川越まち歩き
新型コロナの流行で休止していた小田原史談会史跡巡りバスツアーを3年ぶりに実施した。コロナ感染を心配してか参加者17名でした。通常なら挨拶やツアーの予定説明の後にまずはお茶のサービスがありますがありません。コロナ感染防止のためバス内は飲食禁止です。なお、バスの換気は新幹線と同じであるとのことです。
小田原と川越の縁は後北条氏が関東に覇権を立てる契機となった河越夜戦があります。また、川越といえば、蔵の街です。圏央道で事故渋滞があり川越には30分遅れで到着したので、蔵造りの町並みグループと川越城本丸御殿グループに分かれて見学した。
川越に蔵造りの町並みが形成される契機となったのは、明治26年の大火です。同じ惨事を繰り返さないよう、蔵造り建物が造られた。重厚でレトロな町並みはタイムスリップしたようです。
川越城は太田道真(道灌の父)または道灌により築城されたと云われる。また、北条氏康は河越夜戦で古河公方、山内・扇谷上杉連合軍を破った。現在の本丸御殿は弘化3年(1848)に二之丸の御殿が火事で焼け、空き地になっていた本丸に再建された。本丸御殿の巨大な唐破風屋根はこれぞ御殿の玄関と云う造りです。
日高市にある高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)を祀っている高麗神社を参拝。高麗王若光は唐・新羅連合軍に滅ぼされた高句麗の王族と云われる。高麗神社は東海道の7国の高麗人を武蔵国に遷し設けられた高麗郡にある。宮司は代々その子孫の高麗家で現在は60代目である。神社裏手にある高麗家住宅を見学。また、別当寺であった高麗山聖天院勝楽寺の高麗王若光の墓に参詣した。
田中 豊
令和2年1月21日
「東国三社をめぐる初詣」
令和年代、初の小田原史談会初詣は、お伊勢参りと並び古来より名高い東国の三社参りとなった。高く広がった青空に恵まれた朝。集合時間よりはるか早くから集まり出した参加の人たち、互いに新春の挨拶が飛び交っていた。私事ではあるが、昨年初夏の思わぬ入院騒ぎで自分の体力復活の試金石の旅でもあった。おなじみの人達との挨拶も交わすことが出来た。
十時五十分鹿島神宮に到着、入り口鳥居前には神宮の案内を依頼した私設博物館の石川館長が待機されていた。「昔、鹿島神宮はすぐそばまで香島の海が迫り、遠望された第一の鳥居から御手洗池まで舟で御手洗川を遡ることが出来、そこに上陸禊をして参詣しという。
神域は約二十一万坪の広大な広さ、昔はその何倍もあった」とか。境内は奈良と同じく三笠山と呼ばれ、杉・椎をはじめ巨樹古木が聳え立つ。鳥居の先には徳川三家の水戸初代藩主徳川頼房(家康の第十一子〈除:女子〉、水戸黄門こと光圀公は二代目)建立の鮮やかな朱塗り楼門のすぐ右には拝殿・本殿が鎮座し、伊勢神宮と同じく二十年毎に造営されていたが、現在の社殿は元和五年(一六一九)徳川二代将軍秀忠により奉納されたものという。左右古樹に覆われた参道はきめの細かいしっとりとした土壌に覆われ、玉砂利などになれた私には柔らく程よい感触を感じた。
祭神は日本建国・武の神「武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)」、神代の御代にさかのぼり神武天皇御の御代、東征の半ば窮地に陥られたが、武甕槌大神の霊剣の神威により救われたという。この神恩に感謝された神武天皇は即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられている。その後、東国遠征の拠点として重要な祭詞が行われ、奈良・平安の頃には国の守護神として篤く信仰され、奉幣使が頻繁に派遣された。中世~近世になると源頼朝、徳川家康などの武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになったという。現在の社殿は徳川二代将軍秀忠、奥宮は家康が建て、楼門と共に重要文化財に指定されている。
頼朝をめぐる人々と史跡を歩こう
第5回 北鎌倉から鎌倉へ
令和4年12月19日
第五回は「北鎌倉から鎌倉へ」です。北鎌倉駅で下車、早速円覚寺へ。中世の雰囲気が残る広い境内を山門・仏殿・国宝舎利殿と廻り佛日庵へ、その庭で川端康成の『千羽鶴』の茶室を眺めながら、冬の日差しを浴びてお抹茶を頂いた。その上にある黄梅院はすっかり冬のたたずまいでした。国宝の洪鐘を見て、東慶寺へ。さらに南下して鎌倉五山第四位の浄智寺に。両寺では終わりかけた紅葉を楽しめた。建長寺前のお店「五山」で昼食の「けんちん汁」等で体を温め、建長寺の境内を廻る。そこから鎌倉七口の一つで北からの入り口である亀ヶ谷坂切通しへ。冬の切通しは日差しも遮られ寒々しかった。切通しを下り右折して海蔵寺に進む。この寺は庭がきれいで花の時期は楽しめそうだ。少し戻り、西からの鎌倉の入り口である化粧坂を登る。この坂は雨水などで土砂が流され岩盤がむき出しになっており、10数年前に来たときから比べかなり登りにくくなっていて、鎌倉時代の鎌倉七口の道とは様変わりをしていると思われる。源氏山に登り、頼朝像を見て寿福寺の境内に下った。昨年12月の鎌倉殿巡りの出発点であった寿福寺で今回の散策を終えた。
第4回 三浦一族を訪ねて
令和4年10月18日
今回は鎌倉幕府の開府に貢献した「三浦一族を訪ねて」三浦半島に向かった。最初は134号線で横須賀に入ってすぐの浄楽寺。和田義盛夫婦が願主となって運慶が造像した本尊阿弥陀三尊を副住職の解説で堪能した。次に三浦一族の主城で畠山重忠等武蔵の武士に攻められ落城した衣笠城へ。一族の最長老三浦義明が籠城して討ち死した。その間に三浦一族が房総へと逃れた地である。城から少し下り義明の像のある満昌寺、三浦三代為通・為継・義継の墓のある清雲寺、三浦義澄の墓のある薬王寺旧跡などの三浦一族の本拠地を徒歩で巡った。さらに下り三浦義明の子佐原義連の開基の満願寺へ。これらの寺々にも運慶に関連する仏像のあることを知り、運慶と鎌倉との関係を再認識した。
その後三浦半島を南下して金田港近くの福寿寺の三浦義村墓に詣で、半島丘陵部に戻り和田義盛の本貫地和田の里を巡り帰路に就いた。
第3回 波多野氏と城館
令和4年8月25日
蓑毛大日堂は秦野市東地区にある大山の山岳宗教の一大拠点であった。平安後期の遺風を残す仁王像の立つ仁王門を潜り、大日堂の重い扉を開けると古色蒼然とした堂内は大日如来を中心に五智如来が仄暗い照明の中から静かに浮かび上がってきた。この堂宇の中は中古の時間がそのままに止まっているようである。背後の不動堂に通ずる石段を登り、茶湯殿に入ると閻魔大王以下の十王像が厳めしい姿で待ち構えていた。三途の川に待つ奪衣婆、鬼、俱生神が所狭しと立ち並び、唯一の救いが中心に立つ2㍍を超える地蔵菩薩で、冥界の恐怖と慈悲の世界がよく伝わってくるお堂である。ここまでは諸堂を管理する寶蓮寺の東島住職(尼さん)に丁寧な解説をして頂いた。
次に東田原にある金剛寺で源実朝の木像を拝観。道を隔てたふるさと公園にある源実朝御首塚(みしるしづか)に詣でて、実朝暗殺から当地に埋葬されるまでの経緯を聞く。波多野城址に移動して、城址の碑のある所より東側の小高い台地あたりが、城館の名残りを示す地名から実際は波多野氏の館があったと推測される。同行し説明して頂いた武勝美さんとまほらの会の皆様には大変お世話になりました。
第2回 大庭御厨
令和4年6月21日
大庭御厨は鎌倉景正によって開発され伊勢神宮に寄進された今の藤沢市・茅ヶ崎市にまたがる広大な荘園です。子孫の大庭氏が下司職であった。大庭景親は石橋山の合戦で相模・武蔵の三千騎を引き連れて頼朝を敗走させた。その後斬首された。頼朝に従っていた大庭景義が御厨領を継承した。
最初に景親の館のあった大庭郷の豊穣であったと思われる田園地帯を1時間ばかりを掛けて散策。田植えが終わったばかりの水田、景親の屋敷跡と言われる大庭神社や宗賢院で当時の御厨に思いをはせ、さらに室町時代に太田道灌により築城されたと言われる大庭城趾をみた。その後東に、国司側についた源義朝の御厨乱入事件のあった鵠沼郷に。大庭御厨総鎮守の皇大神宮を参拝。今度は西に向かい茅ヶ崎市の懐島郷の義景館跡に。残念ながら屋敷跡と言われる社の周りは全くの住宅街で昔の面影は無かった。少し西の鶴嶺八幡宮へ。国道一号線脇の大鳥居から社殿に続く八丁参道は松並木で雰囲気があった。1063年源頼義によって創建されたもので、源氏が関東進出の際に創建した最初の氏社と言われている。最後に国道一号線脇の「旧相模川橋脚」を見学、関東大震災の時に田んぼの中から出現した旧相模川橋の橋脚だ。頼朝がこの橋の落成式の帰りに落馬して死亡した説を偲び小さな旅を終えた。
第1回 頼朝と曽我兄弟が歩いた道
令和4年 4月19日
今回から「鎌倉殿をめぐる人々と史跡」という新しいシリーズが始まりました。
第一回は「頼朝と曽我兄弟が歩いた道」というテーマで鎌倉古道を歩きました。
下曽我駅を出発し、二宮駅までの約8キロのコースです。
多くの人が往来した六本松の峠を過ぎ、頼朝に因む将軍山、鎌倉山、大迎えの丘を下りました。当時あった中村湖の周辺の山道を歩き、川勾神社から再び山道を登って、古人も一息ついだ嘶き窪(いなくぼ)では馬も足を掛けた馬蹄石を見て、吾妻山西麓まで至りました。
時間の関係で次の知足寺等の見学場所は省略し、二宮駅で解散。天気に恵まれ、道すがら農家の人々と会話を交えながらの楽しい史跡探訪の散策となりました。
曽我物語を追っかけよう
第10回
令和4年 2月16日
高麗山の下の平塚市山下の虎女の史跡を巡る。白藤稲荷社の「虎女の文塚」(虎女が亡き曽我十郎の追慕を断ち切るため、十郎からの文をここで焼いた)―「虎住庵の跡」(虎女が尼となって閑居した)—「山下長者屋敷跡」(虎女の養父の屋敷跡といわれる。鎌倉時代の形式の館跡)-湘南平(泡垂山)の「曽我十郎の硯水」(十郎が虎女に送る文を書くのに五郎が踏んで出来たここの池の水を使ったと伝えられる)展望台からの房総、箱根富士、新宿・横浜の超高層ビル群も見え景色が素晴らしかった。
中井町遠藤の「鬼王・段三郎の墓」(曽我兄弟の従者。関谷氏の説明あり。)―小田原市東大友の小田原球場近くの「大友能直(和田義盛)屋敷跡」(曽我郷のとなりで曽我兄弟の同時代。小林氏のお話があった。)
第 9回 鎌倉歴史散歩
令和3年12月 7日
12月7日初冬の鎌倉歴史散策をしました。 鎌倉駅西口から「今大路」を経て寿福寺、「窟小路・横大路」を経て鶴岡八幡宮、さらに東へ初期の鎌倉幕府のあった雪の下周辺や永福寺跡、鎌倉最古の寺の杉本寺、「六浦道」の南側滑川沿いの「田楽辻子のみち」を通って宝戒寺・東勝寺跡、更に小町大路を南下して妙本寺へ約2万歩の散策でした。寿福寺や滑川沿いや妙本寺など各所の紅葉も見頃で美しかった。NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で来年は大混雑が予想される鎌倉ですが、今回は静かな鎌倉でした。
第 8回 番外 松田氏・河村氏の史跡巡り
令和3年10月19日
遠藤先生(松田町文化財保護委員)の案内で松田氏・河村氏の遺跡を巡る。
山北町湯本平 満蔵寺 ―湯触 松田康隆が修造の三宮寺跡
―河村城址:河村氏が籠城して足利軍と戦う。後北条氏が城を拡張。発掘復元の障子堀。
松田康隆が河村郷を所領した。 ―湯坂 河村城南麓の河村氏居館跡
―室生神社:鏑流馬神事は鎌倉での河村義秀の鏑流馬の妙技に由来するとの伝承がある。
―般若院(河村氏菩提寺)
―松田町庶子 大蔵院:松田城跡の麓に所在。松田氏のものと思われる五輪塔と宝篋印塔群。
―寒田神社:足柄上下郡唯一の式内社。旧神主家の名乗りは松田氏。
第 7回
令和3年 7月14日
伊豆の国市韮山・北條の里 曽我兄弟にゆかりのある北條氏、源頼朝などの史跡を巡る。
仁田忠常の墓(兄の曽我祐成を討取った武士) ~ 円成寺跡(北條氏邸跡)
~ 成福寺(北條氏一族の墓所) ~ 伝堀越御所跡(堀越公方足利政知の御所跡)
~ 北條政子産湯の井戸 ~ 願成就院(北條時政の創建 国宝運慶作諸仏 北條時政の供養墓)
~ 眞珠院(伊東祐親の娘で頼朝最初の恋人・八重姫の供養堂) ~ 蛭ヶ小島(頼朝配流の地)
第 6回
令和3年 5月18日
相模の中世の武士たちの跡を訪ねる。 相模川右岸地域の岡崎氏・中村氏
伊勢原市無量寺(岡崎城跡・岡崎義実) ― 平塚市天徳寺(真田城跡・真田与一)
― 平塚市大乗院(土屋城跡・土屋宗遠) 案内:郷土史家 関野勝久氏、杉山昇氏、蓑島幾造氏
― 中井町中村庄司宗平館跡 案内:郷土史家 関谷 満氏
― 二宮町知足寺(二宮友平・朝忠館跡)
・二宮朝忠の妻・花月尼は満江御前と最初の夫源仲成との間に生まれた曽我兄弟の同腹の姉。知足寺は花月尼が創った仏堂の跡に創られたといわれる。
第 5回
令和3年 3月30日
兄十郎祐成の恋人・虎御前の伝承が残る大磯を歩く
鴫立庵(日本三大俳諧道場の一つ 案内:大磯町学芸員 北水慶一氏) ― 慶覚院 ― 善福寺 ― 虎御前の化粧井戸 ― 延台寺
・善福寺は伊東祐清の子で曽我兄弟の従弟の平塚入道了源が創建。
・延台寺は虎御前の草庵法虎庵跡に創られたとの伝承がある。「虎御石」や虎御前木像などが祀られている。
第 4回
令和2年11月17日
富士宮市富士の巻狩リコース 案内 :富士富市郷土資料館館長 渡井一信氏
狩宿の下馬桜、井出家・高麗門・長屋、曽我八幡宮、曽我兄弟霊地、
音止めの滝===曽我兄弟の隠れ岩===工藤祐経の墓
第 3回
令和2年10月 6日
河津八幡神社、血塚・椎の木、音無神社、最誓寺、東林寺、伊東祐親の墓
第 2回
令和2年 9月 1日
箱根神社と兄弟のつながり 案内 :箱根神社爾宣 柘植英満氏
箱根神社、湯本 正眼寺、湯河原 城願寺
第 1回
令和2年 8月 4日
十郎・五郎が育つた曽我地区を巡る
瑞雲寺、小沢大明神、満江御前墓、曽我祐信屋敷跡、他