令和7年9月24日
小田原史談会 令和7年秋の史跡巡り
秋の一日、アクアラインを使って一気に房総半島
秋と銘打ったバスツアーでしたが、彼岸となり、いくらか過ごしやすくなりましたがまだ夏でした。東名高速から首都高速湾岸線に入り、工場群や自動車運搬船を見ながら、アクアラインのトンネルに入り、海ほたるで休憩して、遠くに東京や横浜の超高層ビル群を見ながらアクアラインの海上橋を渡り、木更津に着いた。
最初の見学地、狸囃子の伝説のある證誠寺に着いた。狸が腹鼓を打ちすぎてお腹をたたき破って死んでいたので、和尚さんは哀れに思って狸塚を作ったとの狸囃子の伝説の狸塚を見学した。また、作詞野口雨情、作曲中山晋平の童謡「證誠寺の狸ばやし」の碑がある。
金谷港の「ザ・フィシュ」で刺身定食の昼食をとり、対岸の三浦半島越しに小田原はどのあたりかなと思いながら丹沢・箱根のうしろに霞んでいるがひときわ高い冨士を眺めた。
鋸山は江戸時代から昭和まで房州石の採石場であった。鋸山南斜面は乾坤山日本寺の境内で、いくつかのコースがある。山頂駐車場でバスを降り、全員で浮彫の百尺観音を拝観して、山頂コース、千五百羅漢道コース、バスに戻るグループに分かれて石仏群をめぐった。私は千五百羅漢道を選んだ。アップダウンの激しい石段の道で手摺に掴まりながら転ばぬように慎重に歩いた。大仏を拝観してバスに戻った。
時間がなく、予定していた源頼朝上陸地をパスして、道の駅保田小学校でお土産を買い、帰途についた。アクアラインで事故渋滞があり、小田原帰着がおよそ1時間遅れた。

令和7年2月12日
小田原〇っと近たび
「三島神社(大井町)から曽我丘陵山麓の薬師仏を訪ねる」
国府津駅で御殿場線に乗り換え、上大井駅で下車した。上大井駅は無人駅で、切符をどこに置いたらよいか一瞬戸惑って駅を出た。駅は昭和のただずまいのレトロな駅舎です。
駅から歩いて行くと途中「箱根山」の酒造蔵「井上酒造店」の前を通り三島神社に着いた。宮司の御母堂様の説明で本殿右手の薬師堂に安置された薬師如来坐像(県重要指定文化財)を拝観し、本殿で参拝。三島神社には算額が奉納されており、明治15年に安藤為吉という人が作成したもので、縦72cm、横139.5cmの長方形の額に5つの図形が描かれている。町重要文化財指定に指定されている。実物は見ることができなかったが、レプリカを拝観した。
上大井駅から下曽我駅に電車で移動。下曽我駅から尾崎一雄の石碑や屋敷跡、墓地などを見学して、宗我神社に参拝し、筆子塚や社殿裏にある曽我兄弟の御霊社などの石造物を見学した。次の法輪寺に行く途中の紅梅は満開で、白梅も咲き始めており、風情あった。法輪寺ではご住職の寺宝の澄禅上人の二十五条袈裟と位牌、拘留孫仏舎利や寺の縁起のお話を拝聴した。薬師堂の平安時代末の作といわれる薬師如来と日光菩薩・月光菩薩を拝観した。

三島神社

算 額
別所薬師堂の焼け薬師は12日が縁日で地元の保存会の方が四名お堂に詰めておられ、保存会の方の焼け薬師の縁起を拝聴し、焼け薬師を拝観した。拝観後解散となり、三々五々梅林へ観梅に行く人、食事に行く人などに分かれた。
令和7年1月22日
小田原史談会 令和7年初詣
遠江国一宮小國神社と掛川城、高天神城を巡る
頂上近くに雲のかかった富士を眺めて東名から新東名に入り、バスは森町スマートICで降りた。ほどなくして小國神社に到着。社名の「おくに」が意味する「神を祀る神聖な場所」にふさわしく小國神社の境内は広大な杉林に囲まれている。拝殿で初詣の参拝をして社殿を一周し、御神木の「ひょうの木」、「大杉」や幾つかの摂社を参拝して境内を散策した。

掛川城の入り口にある「こだわりっぱ」で茶そば刺身御膳を頂いた。
大日本報徳社は掛川城のすぐ東側にある。二宮尊徳の弟子であった岡田佐平治が設立した「遠江国報徳社」を起源とし、全国の報徳社の総括と報徳思想の復旧活動を行っている。
大日本報徳社を石野専務理事の案内で見学した。敷地内に明治35年建築の大講堂、道徳門・経済門、図書 館、有栖川宮邸から移築の木造の仰徳記念館・仰徳学寮、冀北学舎がある。大講堂で石野氏の岡田喜平治・良一郎主導の掛川地方の報徳運動と大日本報徳社についての講演を拝聴した。
今川氏真は武田信玄に駿府の今川館を追われ、朝比奈康朝の掛川城に逃れたが、徳川家康に包囲され、北条氏康の仲介で氏真は開城して小田原へ退去して家康に引き渡した。家康が関東に移封すると、山内一豊が掛川城に入り、大幅に拡張・改築し、天守閣などを造った。江戸時代は譜代大名が城主であった。安政元年(1854)の安政東海地震で城の建物が倒壊し、二の丸御殿は再建されたが、天守閣は再建されなかった。平成6年(1994)に木造復元の三層天守閣が再建された。


天守閣に入館し狭く急な階段を登り最上階まで上がった。そして現存二の丸御殿を見学した。書院造で江戸時代の藩主の公邸・藩の役所・儀式の場を偲ぶことができる。
掛川城から高天神城への沿道は低い丘陵で茶畑が続いている。高天神城は海抜132m、小規模ながら堅固な山城で、戦国時代末期に武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦繰り広げた。
高天神城ガイドの案内で、本丸のすぐ下の搦手口から急な石段の登城道を休み休み登り、尾根上の井戸曲輪を経て本丸に到着した。井戸曲輪を経て急な石段を登り高天神社のある西の丸に至り、風力発電の風車が林立している御前崎・遠州海岸を遠望した。周りが急な崖になっており、堅固な山城を体感した。
バスに 戻り帰途に就いた。
令和6年9月26日