
「関重忠日記」について
小田原史談会は平成26年(2014)より「片岡永左衛門日記 昭和編」の解読を始め、次いで大正編を解読して、明治編と解読を進め、令和6年(2024)に解読を終了した。
令和7年(2025)4月より新企画として「関重忠日記」の解読を始めた。海軍機関少将で退役した関重忠が小田原に住んだ明治末から昭和初期までの「日記」は、小田原の明治から昭和の貴重な資料です。
なお、「関重忠日記」のイギリス留学から日露戦争までは、すでに「関重忠日記抄」として刊行されている。関重忠が海軍を待命し、小田原に住んだ明治45年(1912)7月より読始めた。
奇しくも、片岡永左衛門日記の解読は明治天皇の崩御で終わり、関重忠日記の解読は明治天皇の崩御で始まりました。
関重忠は、文久元年(1861)生、昭和20年(1945)没。東京の攻玉社などで漢学・英語を学び、海軍機関学校を卒業。英国グリニッジ海軍大学校に留学。日清戦争に従軍し、戦後、戦利品となった清国の軍艦「鎮遠」の鐘をもらい受け、小田原中学に寄贈した。鐘は現在も小田原高校にある。日露戦争・日本海海戦に連合艦隊・戦艦朝日の機関長で従軍した。明治45年(1912)海軍機関少将で待命し、翌年大正2年に予備役となる。

関重忠日記
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第14回
実施日2025年10月27日
大正2年12月17日~大正3年1月4日
12月18日 招待され活動写真常設館の有楽館開館式に参会。郡長、町長の祝詞等了りて、模擬店の「スシ」、「ビール」、日本酒などを賞味し后ち、活動写真、浪花節等の余興あり。
20日 西岡大人御法事施行につき午前十一時過ぎ喜美と共に海蔵寺に至り墓参の為の用意を監督す。十二時半東京ヨリ諸客来着后法要開始。焼香終了其より午食に列し了りて解散。諸氏は湯本福住に至らる。西岡お花さん、山本みや、牟田口宗六氏等自宅に立寄らる。お花さん、みやさん帰京の途につかる。余は約束により喜美、勝子、重美、セキ同導。前記福住に至り。一同にて会食。余等夜帰宅。他は一泊さる。宗六君自宅に一泊さる。
英国「パケナム」少将より来状、同時五磅(ポンド)貨幣を勝子に耶蘇誕生日祭日祝品として贈らる。
24日 豫て養子縁組相談決定の中井音松、本日関家に入籍の手続き及届書を町役場に出す。同時に重永と改名願いを郡役所に出す。
27日 左の御案内状落手。
天皇陛下の命を奉し来る大正三年一月五日
正午十二時宮中に於て催さるる新年宴会に招待す
大正二年十二月二十三日
宮内大臣伯爵渡辺千秋
海軍機関少将関重忠殿
子爵渡辺七郎氏より故叔父上の御遺物として名刀二振余及重廣に贈らる。
28日 午前、皇子2殿下御来着に付きお出迎に至り御用邸に御安着后伺候拝謁被仰付。
午后東條中将の葬儀に付き陪棺者を托され会葬。一時出棺小峰公園に於て神葬式を以て葬儀を行わる。
大正3年1月1日 本日早朝起立一同にて屠蘇及雑煮を以て新年を祝す。
余は宮中に於ける拝賀の為め朝食后上京別府、石黒、渡辺諸家に年賀に立寄り十時三十分参内す。東溜間に於て集合十一時に至り豊明殿に整列す。天皇、皇后両陛下には式部長の先導にて出御。各皇族妃殿下随従せらる一同敬礼。両陛下御答礼の上御退出。一同解散。此日天皇陛下には洋装の御正服にして実に美事なりし。
余は退殿后、東伏見宮御邸、石黒家、青山御所、石原、大久保家、高輪御殿、重孝に年賀に立寄り帰宅。
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第13回
実施日2025年10月13日
大正2年11月16日~12月16日
11月16日 渡辺叔父上(渡邊昇子爵)*1の青山祭場の御葬式に会葬。陪棺者は大村出身の陸軍将校7名、1名不足で余、陪棺。伏見宮殿下御代辨、首相代理、斎藤海軍大臣など多数多数会葬。陸軍儀仗隊の喇叭手弔音を吹奏。
20日 英国「パケナム」大佐より、金剛艦長に托して贈られた新式にして上等な洋傘が重光より送り来る。
22日 余の誕生日につき、赤飯を焚き祝杯を挙げる。
25日 本日蜜柑取り終了。
26日 左に蜜柑を送る。
林氏(百個)・・・高頭氏(上等四十五個)。
英国「パケナム」少将に喜美手製の「壜細工物」を新年祝賀品として贈る。
29日 官報に重光勲四等瑞宝章に叙せらる旨記載あり。
30日 本日左に蜜柑を箱に入れ発送す。
重孝、重光方に各唐蜜柑*1百七十、本蜜柑五百・・・中村氏に両種百三十。
12月1日 重孝は韓崎*2艦長兼第二潜水艦隊司令に転せり。
10日 喜美と共に瓜生大将を新宅に訪う。
11日 勲章年金二百九十二円受領す。
13日 瓜生大将新宅開きの囲碁界に参会。
*1唐蜜柑 温州ミカンの別称。 本蜜柑 紀州ミカンの別称。西日本では小ミカンと云う。
*2韓崎 日本海軍初の潜水母艦。艦名は対馬北端の地名から名付けられた。元ロシアの軍艦。日露国交断絶により対馬の北方、釜山沖で拿捕されたため、対馬北端の名前が付けられた。潜水母艦は潜水艦に補給をおこなう補給艦の一種である。前進根拠地や泊地などにおいて潜水艦を接舷させ、食料、燃料、魚雷その他物資の補給を行う
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第12回
実施 日2025年9月22日
大正2年10月19日~11月30日
10月19日 依頼を受け早川村軍人会青年会大会の為同村小学校にて講話す。来賓は外に菊池郡長、大嶋警察署長等。
22日 両陛下御還幸につき国府津駅に御見送り、余及び神奈川、静岡県知事、拝謁賜わる。光栄なり。
27日 高等女学校学芸奨励会を参観。生徒自製の菓子を土産として贈られる。
31日 天長節。海軍正服着用十一時過ぎ参内す。宮中に備えたる名姓帖に各自官氏名を記し、設けの扣所に参集、刻定まりて一同定めたる宴席に着く。余等勅任二等官は千草の間に至り、各自の位監に着席。陛下御出御、一同敬礼着席。二の膳上珍味善美ならざるなく。御還御后各自御料理を携帯退席す。余等此の盛典に浴す。非常の光栄なり。
小田原町に於ては此の夜全町の提灯行列あり盛観なり。
11月2日 午前、中学校の運動会を見物。開院宮若宮、来臨御見物。
午後、二宮神社境内に於て開会の小田原瓦斯株式会社の園遊会に出席。余祝辞を述べる。
3日 小田原在住陸海軍将校秋季懇親会を好友倶楽部に開く。合計十六名。午食後筑前琵琶、浪花節、義太夫などあり。喜美、勝子等午后より来会。
5日 小田原人親睦会東京で開かる。来会者は大久保子爵始め、四十人許り。
7日 本月分所得税。
1.金弐拾五円八十二銭 大正二年第二期分所得税。
1.金参円七十五銭 所得税付加税(町税)
10日 観艦式に陪観の為横須賀に至り、朝日に乗艦。大元帥陛下は御召艦香取の御乗艦。木更津沖にて演習。飛航機が飛来。
11日 午后、赤坂御苑の観菊会に参列。両陛下御着苑、御上覧の後、玉座に就かれ、吾々一同着席主食の馳走に浴す。
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第11回
実施日2025年9月8日
大正2年9月22日~10月18日
9月22日 パケナム少将*1より寄贈の「スフヒーヤ」絵入雑誌八月十六日分到着。
平井商店に「スフヒーヤ」合綴方を托す。同店に絵葉書用種板を数枚貸与す(小田原海浜に皇太子殿下御上陸時の駆逐艦隊四隻停泊の景など)。
24日 秋季皇霊祭*2。 酒田村開成小学校の校友会依頼にて講話を為し、ビールの馳走になり、松田駅より帰途につく。
30日 町組川口織太郎所有宅地買取方に付き本日同人と共に裁判所に至り登記届を為し、代金三百七円四銭を渡す。宅地三十八坪。
十月六日 郡役所に至り神奈川県庁開庁式に出陳の忠真公太刀及び書類、浅田氏の分等。
十一日 恩給五百十四円五十銭領収。
十八日 両陛下京都行幸、国府津駅通過に付き奉迎送す。
*1パケナム少将。 英国海軍軍人。日本海海戦を関重忠乗艦の戦艦朝日に乗艦し、観戦した。
*2皇霊祭。 春季皇霊祭と秋季皇霊祭がある。皇霊祭は、歴代の天皇、皇后、皇親の霊を祭る儀式で、宮中祭祀のひとつ。現在は春分の日と秋分の日でお彼岸の日。
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第10回
実施日2025年8月25日
大正2年8月29日~9月22日
9月7日 大正二年所得高
小田原邸内田地 一反四畝 十七円
小田原邸内畑地 二反四畝 十六円
金田村田地 三反四畝 五十三円
金鶏勲章年金 五〇〇円
勲六等年金 八四円
三月末日にて俸給 七四八.八〇
四月以降年金 一五四三
合計 二九六二
9日 小西六右衛門店に乾板及び「イントナ」、P.O.Pを注文。
11日 浅田家に至り敵討始末書を借受ける。
14日 本日より神翁。林の二児来宿。
重孝より南清に於て求め̪韓退之*1の石摺小包にて送り来る。
16日 神奈川県庁新築開庁式の陳列品に余は大久保忠実公御太刀双龍刀、大久保忠朝公小田原城御拝領送受書、浅田敵討書類を出陳を決す。
*1 韓退之(かんたいし) 韓愈(かんゆ)(768~824年)の別名。退之は字(あざな)。中国唐代中期を代表する文人・士大夫。唐宋八大家の最初の一人とされている。
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第9回
実施日2025年8月14日
大正2年7月14日~8月28日
7月17日 豊島岡御陵地にて有栖川宮殿下の葬儀御式あり参拝。
29日 青山埋葬場に至り佐藤機関少将の葬儀に会葬。午后、大久保家、北白川宮御殿で成久殿下、妃殿下に拝謁。 30日 先帝陛下の御一年祭に付き参内御霊殿に参拝。
8月2日 午前6時30分に参内し、階前に整列、御霊を御供し、皇霊殿に着后、一同参拝。陛下にも日本古代服にて御拝。
7日 西岡大人石碑を鴨宮の石工宅で実見。同地の豪家岩瀬与三助方*1で午食供応に預かる。
10日 中学校に於て陸軍軍楽隊の奏楽あり。余は依頼され演説。
18日 早朝、重廣と小田原を電車で発車、国府津で汽車にて発車、御殿場に至る。 馬車鉄道*2で旧御殿場に着き旅館にて暫時休憩。乗馬で長尾峠のトンネルに着き、下馬、休茶屋にて休息。徒歩にて出立、十二時仙石原村長勝俣氏に立ち寄り、午食の馳走になる。馬車にて下降宮城野にて下車。徒歩にて木賀、底倉を過ぎ、宮ノ下に着、三好氏に立ち寄り、出立、夕塔ノ沢鈴木に立寄り、湯本福住楼で入湯・馳走になり。七時三十分発の電車にて出発、八時帰宅。
23日 中井音松を関家に養子の件相談し決定。
24日 小田原小学校にて同窓会を開かれ沼田頼輔氏*3の小田原に関する講演あり。余も体育につき講話す。
*1 小田原市登録有形文化財・岩瀬家住宅母屋。安政4~5年(1857~1858)頃に建築された建物で、この建物は、幕末から明治時代にかけての豪農の形態をいまだに残している貴重な茅葺き農家造り。
*2 御殿場馬車鉄道は初代と2代目の馬車鉄道があった。
明治31年に初代法人が設立され明治34年までに、御厨町の御殿場駅前にあった新橋(にいはし)停留場から、籠坂峠の籠坂停留場までの馬車鉄道を開業。その後、中央線の開業に伴い、富士登山客は、中央線で大月駅まで行き富士馬車鉄道・都留馬車鉄道に乗り換える富士吉田口からの登山ルートに移行して、経営が悪化、初代法人は解散し個人経営に移行した。明治42年に2代目の御殿場馬車鉄道が設立され、個人経営の馬車鉄道を継承した。大正時代になると路線を縮小し御殿場地域内のみの地域鉄道となり、昭和3年まで細々と運行を続けたが、バスやトラックが普及したため、休止した。
*3 沼田頼輔(1867年〈慶応 3年〉 - 1934年 〈昭和 9年〉)相模国愛甲郡宮ケ瀬村生まれ。歴史学者。「日本紋章学」の著書として知られ、神奈川県史にも研究深く、県内に多くの知人と門生をもっていた。
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第8回
2025年7月28日
大正2年6月10日~7月13日
6月11日 重廣に「血烟」*1を送る。
16日 自宅の期瓜(胡瓜のことか)、インゲン豆、ジャガイモ等を取る。
23日 上京、胃腸病院に重廣見舞。院長と相談。重廣退院し一緒に帰宅。
7月5日 中田雲暉氏*2に雲暉会費を送金。
6日 村上海軍中佐来訪、家族、酒匂に在住。10日嶋田機関大佐家族、小田原に移住。
(何人かの将校に小田原来住を相談される。)
10日 浅野氏来訪囲碁。(しばしば、友人及び、倶楽部で囲碁をする。)
11日 上京、有栖川宮家に伺候、故宮殿下に対し御弔意を申し上げ、名簿に記名。
*1 「血烟」は、安川隆治著の日露實戰記、1912年出版、増訂版を重ねた。
*2 中田雲暉(なかた うんき)は、明治4年(1871年)神奈川県小田原市生まれの日本画家で、南画(文人画)を中心に活動した画家。文展(文部省美術展覧会)にも出品歴があり、大正期から昭和初期にかけて東京画壇で活躍。
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第7回
2025年7月14日
5月4日 酒匂松濤園*1に於て小田原在住陸海軍将校懇親会を開く。来会者20名。
帰途、元西村氏所有の藤花を賞す。*2
5日 節句の祝日につき重美の為祝宴を開き、午后寄宿書生をして大紙鳶(おおだこ)*3を飛揚。
6日 昨日苗場に種米を植える。*4
9日 恩給認書役場を経て送付、領収。恩給年金2058円。
11日 午前伊東中尉など、午后川添氏等来訪、満開のバラ、ツツジを賞し、囲碁。
12日 従四位に叙せられる。15日 上京、参内御礼を奏上、退殿。
13日 重美、種痘を接種。
15日 東京・小西写真店に於て種板、其の外写真入用品を買求む。
新築費の内、材木店に94円14銭、石代に1円33銭、大工に30円を支払う。
22日 旅順戦利艦材にて作りし額を松原神社に奉納。
水道税半期分4円納金。*5
27日 海軍の祝捷記念日で中学校長の依頼により同校に於て日本海海戦の実戦講話を為す。
30日 重廣、鈴木胃腸病院に入院の為上京。
6月3日 酒匂に蚊針釣に至る。 8日早川に鮎釣り。(この後、しばしば早川に鮎釣りに行く。)
*1 松濤園(しょうとうえん)は、湘南随一の避暑地の先駆け。 酒匂の網元鰤大尽川辺段右衛門家明によって酒匂の広大な海浜の松林に開設された。茅葺田舎家風の離れ家の貸別荘、旅館、料亭として明治28年頃開業。貸別荘は皇族、徳川慶喜などの長期静養にも利用された。
*2 西村氏所有の藤花。現在は小田原城跡の二宮神社寄りの堀端に3株のフジが植えられている。東側の株は樹齢約220年、中央の株は樹齢約170年の古木です。このフジは明治16年(1883)、浜町の西村元吉氏が板橋の森元市蔵氏から買い受けて育てたもので、大正天皇が皇太子の頃、この藤を見て美しい花とほめられたので、「御感の藤」と呼ばれるようになりました。大正11年(1922)3月に小田原保勝会の人々によって、西村宅から現在地に移植された。
*3 大紙鳶(おおだこ)。小田原では5月5日に初節句の家では大凧を揚げた。種類は武者・雲竜・家紋などの絵凧、字を書いた字凧、達磨凧、百足凧、鳶(とんび)凧、奴凧、けんやき凧(六角の凧の両脇に袂を付けた凧でふらふら動いた)。
大紙鳶は鳶凧のことと思われる。
*4 関家の屋敷。 屋敷内には人が泳げる大きな池や田、菜園、果樹などもあった。総面積は2000坪ぐらいあった。
*5 戦国時代からある小田原早川上水を引水。この頃は水道税で上水を維持・管理していたのか。
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第6回
2025年6月23日
大正2年3月7日~4月28日
3月11日 大臣より上諭に依り退現役の願書を出すよう諭示来る、直に願書を山屋人事局長宛にて発送。
28日 世田ケ谷教覚(学)院に至り、大久保家御法事に参会。
29日 昨日東京に於て飛行機墜落徳田、木村二中尉惨死*。
4月1日 3月31日附にて予備役被仰付辞令書落手。 2日 海軍省に出頭夫々訪問。北白川、竹田両宮殿下に伺候するも留守。
6日 阿部中学校長、岩田町長の依頼により、中学校生徒中の有望者の寄宿監督を依頼され 承諾。 警察署焼失、拘留人の放火。
10日 機関学校生徒箱根に行軍につき同校長市川機関少将等先発として来着、当宅に立寄り、二宮神社に至る。生徒一同は十二時同社に着、出立。
20日 敬愛婦人会総会を野村子爵別邸に開催。来賓総代として祝辞を述べる。
*日本初の航空事故。木村中尉と徳田中尉が搭乗したブレリオ機は東京青山練兵場から所沢飛行場に向けてのフライトで、所沢飛行場を目の前にして墜落。
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第5回
2025年6月9日
大正元年12月24日~大正2年3月6日
大正2年1月4日 午前瓜生大将、同夫人来訪談話囲碁*1を為す、午后同氏を板橋村益田氏邸に訪ずれ囲碁、益田孝氏夫婦にも会す、山縣公爵来訪、始めて紹介される。
2月9日 東宮殿下(後の昭和天皇)本日熱海より沼津に行啓の為駆逐艦にて小田原海岸に御上陸*2に付き一同御出迎る。第二駆逐隊四隻入港。殿下は指令艇に御乗艦し御上陸、御用邸に成られる。午后殿下出発され町役場前に御見送り。電車に御乗車。国府津へ。各学校生徒等整列奉送迎。
11日 中井村(紀元節)大会、小学校にて開会、勅語奉読、来賓演説あり、余は最後に講話。 今泉村小学校にて夕刻、日露戦役の実戦談を講演。
12日 勇子と共に秦野町に至り、煙草製造所を実視し同地より軽便鉄道*3にて二宮に着、同地より人力車にて国府津に至り電車にて夕帰宅。
17日 足柄下郡連合軍人会を中学校運動場にて開催。余も出席。
3月1日 下郡連合青年会及神職大会に出席。神奈川県知事代理、神官藤岡氏等の講演、表彰状授与式あり。
3月6日 (ドイツから帰国の小川量平氏*4を出迎え。)横浜に至り、埠頭にて東京より来着の小川氏近親満氏に出会し、共に汽船にて「モンゴリア」号に至る、小川氏夫婦に面会、無事帰着を祝す。
*1囲碁を通し瓜生大将、大嶋大将など多くの人と交游。
瓜生夫人の繁子は益田孝の妹で、明治4年に8歳で、津田梅子らと派遣された日本初の女子アメリカ留学生の5人の内の1人。東京音楽学校と東京女子師範学校の教授を勤める。繁子は日本語が苦手であったので、この時、瓜生夫妻と重忠は英語で会話したのか。
*2昭和天皇は大正2年2月9日時点で11歳。駆逐艦で熱海から小田原海岸への途中、真鶴岬沖で駆逐艦の発火演習を見学し、港ではなく、砂浜の小田原海岸に上陸し、海軍を体験的視察。将来の天皇として、軍事知識と国防意識を高めるために、陸海軍の演習を視察されていた。
*3湘南軽便鉄道は1906(明治39)年に「湘南馬車鉄道」としてスタート。1913(大正2)年、動力を蒸気に変更し、会社名も「湘南軽便鉄道」とした。1918(大正7)年、「湘南軌道」に社名変更した後、1937(昭和12)年8月に廃止された。大山への参詣客と煙草を運んだ。
*4小川量平。旧小田原藩士小川正義の長男。明治6年生。昭和17年没。明治31年東京帝大電気工学部卒業。ドイツのシーメンス・シュッツケルト電気会社(以後シーメンスという)に入社。同43年ドイツ本社勤務。大正2年3月帰国し、同社東京支配人となる。
富士電機は大正12年、古河電気工業とシーメンスの資本・技術提携により、設立された。小川量平は富士電機の創設に関わり、東京シーメンスの社員と共に参事として入社。
小田原有信会の藩史編纂委員、会長として藩史編纂などに携わった。
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第4回
2025年5月26日
11月15日~12月18日
11月21日 重廣昨日帰宅本日岡田先生の診察を受ける。此の際充分養生するの必要を説かる。同人も一年間学期を延引する覚悟なり。午后横須賀に於て新艦比叡の進水式に出場す。
24日 此日塔ノ沢環翠楼於て小田原在住陸海軍将校秋季懇親会を開催
28日 山角町青年城友会員の依頼により講話を為す。
12月14日 昨日西岡大人御病状重躰の事を近親に通知す。
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第3回
2025年5月12日
9月25日~11月14日
9月25日 喜美、勝子、重美と同道、北白川宮妃殿下に、午後東伏見宮妃殿下に伺候拝謁。御品を賜り非常の光栄。
29日 朝日新聞社に六か月分二円六十七銭送金ス。大日本書籍株式会社に官報代金三ケ月文一円八十銭送金する。
11月3日 水産講習所に於て「テニス」大会あり、出席、
5日 両陛下桃山に御参拝国府津御通過につき同駅に至り奉送迎す。続きて竹田宮、北白川宮、同両妃殿下御通過につき停車を待ちお召車外に伺候せしに各殿下に拝謁。
6日 二宮神社に至り、初め先帝御百日祭の遥拝式あり、后ち招魂祭あり、参拝者西岡大人、余を始め陸海軍将校其外町長以下多数なり、午后更に神職会の遥拝式あり。
7日 両陛下午后御還幸に付き国府津駅に伺候す。
12日 横浜沖の観艦式陪観の為平戸に乗艦す。平戸には東宮殿下及二皇子殿下御乗艦あらせらる。十時大元帥陛下筑摩に御乗艦各艦を御検閲あらせらる。御観戦中戦航機の飛行。式後安芸及び河内に於て御宴を賜る余は安芸に於て御陪宴を列す、将官以上に天杯を賜わる。
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第2回
2025年4月28日
大正元年8月17日~9月24日
8月18日 重廣と共にテニスのマッチに出場。
20日 (先帝の)殯宮(もがりのみや)を祗候の為上京し、参内。六時より十二時まで御通夜す、海軍を代表して二人で1時間づつ交代。霊柩は殯宮の正面奥に安置され之に向かいて左側に皇族、親任官席にして向いの右側は陸海軍簾中及び勅任官、華族、各爵等にして神官は其前面に着席、近衛将校は六名づつ極接近して両側に着席す。
8月30日~9月1日 波浪激しく、数件被害が出る。自宅門前に漁船2隻避難。
9月3日 英国、ウエー夫人、バチナム大佐、ラングメード機関大佐が町長を訪問。
12日 殯宮拝礼。
13日 御大葬に付き市中が非常に雑踏。参内し、東車寄前テントに参集。(侯爵、高等官一等、侯爵、高等官二等は麝香間祗候。錦鶏間祗候勅任待遇伯爵、従二位、勲二等、侯爵、正三位、従三位、勲三等男爵、正四位従四位)。その他は二重橋内外に整列。六時轜車御出殿五頭牛引き車輪の音響実に悲哀なり。九時過ぎ青山大葬場に着。同場に於て各種の儀式あり、夜二時に御発車、京都に向かう。
16日 青山東宮御所に伺候。青山墓地の御墳墓に参拝。
24日 相楽小西両家の結婚式、赤坂八百勘で開かれ媒酌。
(山口 記)
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第1回
2025年4月14日
明治45年7月1日~大正元年8月16日
担当 星野、居原田
7月10日斎藤海軍大臣より余の待命を奏請したとの私信来着。12日待命の電報人事局長より到達。15日新舞鶴を出立、三須長官以下大勢の見送り。翌日、国府津着、岩田町長等の出迎え、帰宅。永年のご奉公全ての希望を達し、所謂功成り、身退くに至る茲に安樂にその日を送り得るに至は実に愉快是極まる。
18日海軍省に出頭し大臣、次官などに面会。大久保子爵などを訪問。20日大久寺墓参。近親・親友を訪問。21日天皇陛下御重患の報あり。上京参内し、御見舞いを申し上げる。22日松原神社にて陛下御全快祈祷式。
7月30日陛下崩御。上京参内し、御帳面に記名。
大正元年7月31日年号を大正と改暦。昨日皇太子 殿下は天皇陛下となられる。
8月5日松原神社にて陸海軍軍人の先帝の遥拝式、8日小田原町による遥拝式を執行。
(山口 記)
片岡永左衛門日記 について
明治35年から昭和9年まで日記を記し続けた片岡永左衛門氏は、1860年(万延元年)小田原宿の本陣であった片岡家に生まれました。明治維新を経験し、明治22年新たな小田原町が誕生したその年に29歳の若さで町会議員となります。 以降、小田原町助役町長職務代理助役を歴任し、小田原町の行政に手腕を振るいます。明治38年助役辞任後は藤沢銀行(現在の横浜銀行の前身)小田原代理店長に就任しますが、この頃から郷土史家としての道を歩み始めます。

星野 和子
永左衛門氏の研ぎ澄まされた視点から書き続けられたこの日記は、まとまった近代の小田原を記した史料が現在殆ど残されていない中で大変貴重なものといえます。今まで断片的にしか利用されていなかった日記ですが、翻刻作業とともに全体像を探っていくことは大変興味深いと思います。
ご一緒に小田原町の出来事や雰囲気を感じ取ってみませんか。

片岡永左衛門日記
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「片岡永左衛門日記を読む会」最終回
令和6年6月24日に明治編の解読翻刻が完了した。これをもって「片岡永左衛門日記」の明治・大正・昭和のすべての解読翻刻が、平成26年(2014)に「片岡日記・昭和編」の解読を始めてから今年令和6年(2024)までの11年間で完了した。
明治45年7月30日 明治天皇崩御。
大正元年7月30日 大正に改元。
8月13日 永左衛門は日比谷公園前で明治天皇御大葬の轜車(きぐるま)を奉送する。
9月19日 昨日、乃木大将夫妻の葬儀。
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こぼれ話 第1回
今回から片岡日記の紹介記事の内容を変更して、「読む会」のメンバーが「片岡日記 明治編」を解読中に各々興味を持った事柄について書いたものを「こぼれ話」として掲載します。
第一話 貰子