小田原史談会理事は平成26年より片岡永左衛門日記 昭和編の解読を始め、平成27年から会報に順次掲載してきましたが、平成30年11月より衣替え。星野和子先生を講師として招き「片岡永左衛門日記を読む会」を立ち上げ、更にこれを機会に理事だけでなく、一般会員も毎月第2月曜日の「読む会」に参加しました。
昭和2年1月から昭和9年末までの昭和編の日記を毎月1回、輪読して令和3年5月に約7年間で読み終わりました。令和3年11月に7年間の日記を1冊にまとめた「片岡日記 昭和編」を刊行しました。
大正の震災前の日記の大半は震災で消失していますが、辛うじて倒壊した家から出てきた大正10年1月から大正11年12月分については令和3年6月から令和4年3月まで輪読し、終了しました。なお、関東大震災後については既に『小田原史談』160号〜221号に収載して翻刻済みです。
令和4年3月からは明治35年4月からの明治時代の日記を引き続き、毎月第2と第4月曜日に「読む会」で輪読します。
順次、下記に記事内容をキーワードと短文とで記していきます。
片岡永左衛門日記 について
明治35年から昭和9年まで日記を記し続けた片岡永左衛門氏は、1860年(万延元年)小田原宿の本陣であった片岡家に生まれました。明治維新を経験し、明治22年新たな小田原町が誕生したその年に29歳の若さで町会議員となります。 以降、小田原町助役町長職務代理助役を歴任し、小田原町の行政に手腕を振るいます。明治38年助役辞任後は藤沢銀行(現在の横浜銀行の前身)小田原代理店長に就任しますが、この頃から郷土史家としての道を歩み始めます。
星野 和子
永左衛門氏の研ぎ澄まされた視点から書き続けられたこの日記は、まとまった近代の小田原を記した史料が現在殆ど残されていない中で大変貴重なものといえます。今まで断片的にしか利用されていなかった日記ですが、翻刻作業とともに全体像を探っていくことは大変興味深いと思います。
ご一緒に小田原町の出来事や雰囲気を感じ取ってみませんか。
片岡永左衛門日記
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「片岡永左衛門日記を読む会」最終回
令和6年6月24日に明治編の解読翻刻が完了した。これをもって「片岡永左衛門日記」の明治・大正・昭和のすべての解読翻刻が、平成26年(2014)に「片岡日記・昭和編」の解読を始めてから今年令和6年(2024)までの11年間で完了した。
明治45年7月30日 明治天皇崩御。
大正元年7月30日 大正に改元。
8月13日 永左衛門は日比谷公園前で明治天皇御大葬の轜車(きぐるま)を奉送する。
9月19日 昨日、乃木大将夫妻の葬儀。
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こぼれ話 第1回
今回から片岡日記の紹介記事の内容を変更して、「読む会」のメンバーが「片岡日記 明治編」を解読中に各々興味を持った事柄について書いたものを「こぼれ話」として掲載します。
第一話 貰子
明治三十五年 五月九日 辰晴
午前農商務省水産局技師□川温氏来場。(中略)同氏は今度九州の沿岸を視察せられたりとて種々談話せられし中に、邦人の朝鮮海に遠洋漁業する漁者は貰子多くして実子少なしと。人情は左も有べし。航海業も非常に発達し、釜山よりは風波有も和製漁船にて十時間にて来航せりと。
「貰子って何?」の質問がどなたからあったので、福島さんが答えてくれました。
「私が生まれ育ったのは新玉本源寺付近。近くの古新宿には同級生が沢山いて、古新宿は江戸時代に入る前から鮪漁が盛んだったこと、昔はかなり貰子が多かった話を聞いてます。『専漁の村』(万年公民館十六区自治会)にも書いてありますよ。なぜ貰子が多かったのか。古新宿は高知・御前崎と並んで三大水揚げ地と言われていた頃があり、近海だけでなく歯舞色丹、宮崎あたりまで漁に行くんですよ。しかし大正になって発動機の時代になると海難事故が多い、だから死亡事故多い、これも貰子が多い原因だと思うんです。」
なるほど、小田原にも貰子がいたのか、と興味を持ち少し調べてみました。引用ばかりで肩身が狭いのですが紹介しましょう。
まず、福島さんに紹介していただいた『専漁の村』に内田哲夫さんの研究ノート記述があります。
昔仲のよかった船持ちの友だちの家に遊びにゆくと(中略)家族なのにみんな苗字が違
い、長男の彼が倍も年の違う人を呼びすてにしているのを何とも思わなかったが、後にあ
れが「貰いっ子」だと聞かされた。後年地方の少年に「千度小路っておっかねえとこだな、
子供のころいたずらすると、千度小路にやっちゃうぞと脅かされたもんだ。」(中略)此の
風習は一般的には労力の補給のためで、子供を出す農村では〝口べらし〟の為であった。
更に、川崎長太郎の次の小説を見つけたので冒頭部のみ紹介しましょう。小説とはいうものの自身の体験に深く基づいたものと推察できます。
『うろこの記録』
旧幕時代の末期。
近在の水呑百姓の三男、太次兵衛は、牛の背中にのり、小田原の漁師与五兵衛丸へ、貰
い子として、買われて行った。与五兵衛丸は、姓をのちに川崎と言い、現在でも、小田原
の漁師仲間に、相当な羽振りをきかしている。当時も、帆を掛けて、三宅、八丈あたりま
で、漁に出るマグロ船その他もつ、浜で指折りの船持ちであった。船子は、大概、零細な
金で、貧乏人から買いとった者達で、読み書きなどは滅多に習わぜず、沖へやって、はた
ち過ぎれば、女房をもたせ、長屋の一軒も当てがい、終生、自家の船へ乗り込ませる仕組
であった。与五兵衛丸のみならず、浜の船持ちは、すべて貰い子により、働き手の補充を
はかってきたもので、この風習は、ずっと大正時代の始め頃まで、小田原の浜に残ってい
た。(後略)
このように一口に「貰子」と云っても、明治から大正にかけて小田原にもあった、農村と漁村の構造的な問題であったことが浮かび上がってきます。(松島俊樹)
第二話「早かった!活動写真上映」
明治三十五年 四月二十二日
午前二時頃、警鐘乱打に目覚れば、南方に当り火光甚しく且強風吹ければ、大火に至らんも知れざれば町役場にかけ付、書記を引連れ劇場富貴座を避難所に徴発し、現場に至れば四戸を焼失して鎮火せり。実に不幸中の大幸なりし(後略)
火災が発生し、避難所を強制的に富貴座にしたと記しています。「富貴座」?? 劇場? 寄席? 映画館? 明治時代に映画館? 歴史に疎い私の頭は、疑問符でいっぱいになりました。
日本最初の活動写真が公開されたのは明治32年(1899)。場所は東京歌舞伎座。
では、小田原にはいつ「活動」がはいってきたのでしょうか。『小田原市史』をめくって、びっくり。明治35年(1902)には公開されているのです。歌舞伎座で初公開されたわずか三年後のことです。早い!「新たな時代が駆け足で小田原の町にもやってきた」という印象を持ちました。
当時は「活動写真」(単に「活動」とも)と呼ばれていて、「映画」と言われるようになったのは大正になってからとか。
さて、日記に出てきた「富貴座」はというと、明治14年(1881)「幸座」として開業。その後火災で焼失。明治26年(1893)に「若竹座」として再建されたものを引き継ぎ、明治29年(1896)には「富貴座」と改名されています。大正4年(1915)に映画の常設館になるまでは、各種の興行が行われていたようです。
松井須磨子による「復活」(カチューシャの唄)が大正3年(1914)に富貴座で上演されたことも驚きでした。
昭和33年(1958)に火災で使用不能になっていなかったらと、考えてしまいました。
映画史を調べてみるのも楽しそうだよと、片岡さんがヒントをくれた気がしています。(大井みち)
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第62回
2023年5月8日 実施
資 料
明治39.3.4~明治39.3.31